掲載サイト:TEAR DROP. ( http://www.teardrop.to/ ) _______________________________________________________ =================================== カルテット =================================== 【注記】この作品群はボーイズラブ小説を書く修行のために執筆したもので、「カルテット」本編とは関係ありません。(でも頑張って書きました)二次創作的なものとしてお読み下さい。細部の設定や時代背景などはそのままです。 ----------------------------------------------------------------------- 習作「天使殺し」 -----------------------------------------------------------------------  日の出の鐘とともに、何かが自分の上を乗り越えていくのを感じて、スィグルは目をさました。  すぐ隣から聞こえる、押し殺した争う声に目を向けて、スィグルは何度か目を瞬かせる。まだ眠気でまぶたが重かった。 「なにやってんの、イルス」  ぼんやり問うと、白い体を押さえ込もうとしていたイルスが、こちらに彼の褐色の肌をした顔を向けた。 「天使殺し」  笑って答えるイルスの下にいるのは、確かにシュレーだった。  痛い、と天使はしきりにイルスを叱責していた。  シーツを波打たせて争うふたりは、まるでチョコレートとクリームのようで、甘い味がしそうだった。 「おはよう猊下。なんで逃げないの」  寝台にうつぶせに半身を起こし、乱れた黒髪に手櫛を入れながら、スィグルは小さく喚いているシュレーの顔を覗き込んだ。 「足が痺れているんだ」  その通りらしい顔で、シュレーは答えた。イルスがシーツの中で彼の脚を押さえ込んでいる。シュレーがまた悲鳴をあげた。  楽しそうだなあ、と、スィグルは眺めた。 「助けてくれ、レイラス」  スィグルの上腕をつかんで、シュレーが頼んだ。スィグルは薄く笑って首をかしげた。いい眺めだった。 「シェルは今日は、そっち側に落っこちたのかなあ」  ぼんやりシュレーに尋ねると、天使はきゅうに、鋭い笑い声をあげた。 「やめろ、くすぐったい」  自分を跨ぐイルスを睨み上げ、シュレーが怒った。イルスがシュレーの脇をくすぐっている。  シュレーは案外、くすぐると弱いらしく、身をよじって笑った。  いつのまにそんなことを発見していたのか、スィグルは感心してイルスを見上げた。 「シェルはさっき、あっち側に落ちた」  寝台の反対側を顎で示して、イルスが答えた。  気づいたんなら、止めてやりゃあいいのに。 「レイラス」  寝台から抜け出ようとしたスィグルに、笑いながら、シュレーはどこか怒ったような声で強く呼びかけてきた。助けろと言いたいんだろう。 「水持ってきてくれ、スィグル」  暴れる天使を押さえ込んで、イルスがのんびりと頼んだ。そういえば喉が渇いている。  シュレーが突然、痛いのとも、くすぐったいのとも違う、短い声をあげた。  いいなあ、と呟きながら、スィグルは裸足のつま先を、寝室の絨毯に下ろした。  床に散らばっている誰のかわからない服を、避けずに歩いて、スィグルは寝台の反対側に落っこちて眠っているシェルのほうへ行ってみた。  まだシーツにくるまったまま、シェルはうつぶせに落ち、ぐうぐう寝ている。  落ちて顔を打っても起きないなんて、どんな眠り方してるんだろう。スィグルはあきれながら、寝息をたてているシェルの、安らいだ横顔を見下ろした。  水差しは寝室の小卓のうえにあった。昨夜は冷たい汲みたての水だったが、もうすっかり夏の朝の空気に温められていた。  そばにあった錫製の酒杯に水を注いで、スィグルはそれを寝台のもといた場所に運んだ。  口元に酒杯をやると、イルスはものも言わずに、そこから飲んだ。傾けすぎた杯から、水がこぼれて、イルスの裸の胸を伝い落ちた。 「猊下も飲むかな」  本人にとも、イルスにともなく尋ねたが、どちらも忙しそうで答えなかった。  スィグルは、どことなく昨日の葡萄酒の匂いがする水を口に含んで、横たわるシュレーの唇に接吻した。水をやると、天使はおとなしく、それを飲んだ。  喉が渇いているらしいシュレーに、スィグルは何度か水を与え、残ったぶんを自分の喉に流し込んでから、酒杯をそこらに放り投げた。  隣に横たわって、シュレーの肩口に頬をすり寄せ、抱擁をねだると、半ば無意識のような長い腕が、どこか縋り付くようにスィグルの体を抱いた。スィグルはシュレーの顔をこちらに向かせ、もう一度唇を重ねた。  シュレーには拒む様子がなかった。いつも初めはうるさそうにされるが、気が乗ってくると接吻を拒まなくなる。  揺れを感じて、スィグルはシュレーの首を抱き寄せながら、イルスを見上げた。目が合うと、イルスはかすかに笑ったが、すぐに目を閉じた。  こぼれた水で濡れているシュレーの胸を、褐色の指が拭うように撫でていく。 「朝から絶好調だね」  スィグルがほめると、イルスは笑い声をたてた。シュレーはなにも答えなかった。日頃はとりすまして涼しげでいる彼の顔が、汗をかいていた。  面白くなって、スィグルは蒸れたシーツの中に腕をのばした。  シュレーが驚きとも悲鳴ともつかない、低い声をあげ、目を開いてこちらを見た。どこか視線の定まらないその表情の意味を、スィグルは知っていた。 「もう一押しで天使は死にそうだよ」  シュレーの喉に鼻先をこすりつけ、スィグルは天使殺しに教えてやった。今度はイルスも答えなかった。  いいなあ、と、スィグルはシュレーの耳元に囁いた。それが聞こえたのか、シュレーは応じるように低く呻いた。  その、どことなく甘い声は、それきり止まなくなった。自分を抱く腕が、ひどく強くなり、シュレーの指が肌に食い込んだが、スィグルはそれを許してやった。  天使の最後の声を接吻で舐めとりながら、スィグルは彼が確かに殺されたのを、自分の指で確かめた。  ややあって、シュレーがおとなしくなると、イルスの満足げな長いため息が聞こえた。スィグルは艶めいた彼のこの声を聞くのが好きだった。 「僕も死にたくなってきた」 「シェルを起こせよ」  まだ微かに熱っぽい声で、イルスが答えた。 「イルスはいつ復活するの」 「俺は腹が減った」  すげなく答えるイルスを、スィグルはぽかんとして見上げた。白い腕がまだスィグルを固く抱いている。 「冷たいなあ。どうせ君は自分さえよければそれでいいような奴だよ」 「今はその通りだな」  ぼんやりと息を吐いて、イルスが寝台の反対側に腰掛ける。見下ろす目をしているのは、たぶんシェルを見ているのだろう。  すぐ上でこんなことがあって、よく寝ていられるなあと、スィグルはシェルの眠りの深さに感心した。なにをされても気づかないんじゃないか。  自分を抱く腕が、ふと緩んだのを感じて、スィグルは間近にある白い顔に目を向けた。まだ半眼の緑の目が、自分の顔を覗き込んでいる。 「おぼえてろレイラス……」  恨みがましい囁き声が、朦朧としたまま呪いの言葉を吐いた。 「逃げなかったくせに」  スィグルは微笑して答えた。  もっとなにか言ってやろうとしたが、スィグルは言葉をのんだ。  寝台の向こう側で、唐突にシェルが立ち上がったからだ。  こちらに裸の背を向けて、シェルは呆然としたように、部屋の中になにかを探している。きょろきょろする彼を、三人で見守ったが、シェルはこちらに気づかなかった。 「こっちだよ、シェル」  気がついて、スィグルは呼びかけてやった。  するとシェルはびっくりしたように、くるりと振り向いた。 「みんないないかと思った」  恥ずかしそうに口元をぬぐって、シェルがそう言った。  よだれ。スィグルは内心でだけそう呟いた。 「おはようございます」  照れ隠しのように挨拶し、シェルはいつも変わらない満面の笑みを見せた。 「おはよう、シェル」 「おはよう、マイオス」 「よく寝るよ、そんなところで」  えへへ、とシェルは笑った。 「みんな、いま起きたところですか」  それが愚問と気づかないところが、シェル・マイオスだった。  そんなところがいい。  スィグルは彼の飛び跳ねた金の巻き毛を見やりながら、最近そう思えるようになった自分に苦笑した。  《終わり》 いただいたお題より、08.三対一、消化で。 ----------------------------------------------------------------------- 習作「素足に触れる」 -----------------------------------------------------------------------  足が痺れて、シュレーは目を覚ました。  窓の外には、真夏の早暁の光が射し始めている。  枕に反面を埋めたまま、シュレーは視線だけで、自分の足を見やった。  亜麻のシーツに包まれた膝の上あたりに、金色の巻き毛をした小さな頭が乗っている。そこから下の感覚がなかった。 「……砂糖は二個までで。二個でいいですって」  小さくもがきながら、シェル・マイオスは眠っているのが不思議なほど滑舌のいい寝言を言っている。  眠気でぼんやりした頭のまま、シュレーは枕に目を戻した。自分と羽根枕を分けて、すぐ目の前でイルスが眠っている。体を折り曲げて横たわる彼の胸のあたりに、長い黒髪がつややかな蛇のようにとぐろを巻いていた。  レイラス、と口の中でつぶやいて、シュレーはどことなく酒精の残っている自分の口元を、手の甲で擦った。スィグル・レイラスは、子供のように背中を丸めて、まだ眠っているようだった。 「そんなに入れたら甘過ぎますから」  またシェルが、やけにはっきりとした寝言を言った。  夏の朝は早く、今日も暑くなりそうな気配がした。シーツにこもった湿気で、布地が肌に張り付き、どことなく不愉快だった。  裸だな、と思いながら、シュレーは自分とイルスの間で眠っているスィグルの生白い項(うなじ)を撫でた。練り絹のような、指に吸い付く感触がした。  昨日で試験が終わり、明日から短い休暇だった。一気に解放された気分だ。  学生のなかにはトルレッキオを発って、自邸に戻るものもいるらしいが、今この寝台で眠っている連中には、そういったことは無縁だ。休みといっても退屈なばかりで、何もすることがない。  ここは自分の部屋のようだとシュレーは見当をつけた。  昨夜なにをしたやら、詳しくは憶えていないが、とにかく服を着て寝ている者はいなかった。自分も含めて。  体温の籠もった枕がいやで、シュレーはシェルを起こさないように、微かに身じろぎして、まだ冷たい場所を探そうとした。その気配に、イルスが突然目を開いた。  間近で目が合い、イルスはしばらく無言で、ぼんやりとこちらを見ていた。寝ぼけているのだろうかと、シュレーは思った。イルスの青い目は、どこを見ているのか、いまひとつ分からない表情をしていたからだ。 「……朝か」  まだ睡魔に後ろ髪を引かれているような掠れ声で、イルスが囁いた。シュレーは頷いた。  顔を擦ろうとして、イルスは自分の隣で寝ているスィグルに気付いたらしく、何度か目を瞬かせた。そして、ああそうか、という顔をした。 「シェルは?」 「私の足の上にいる」  教えると、イルスは首を傾けて、それをのぞき見た。 「布団の上にいるだけ、ましか」  イルスがそう言うと、それに答えるように、シェルがまた何か、砂糖がどうのと寝言を言った。イルスは笑いをこらえている顔を、シュレーに向けた。  シェル・マイオスは寝言を言う質(たち)だった。眠りが浅いように見えるが、寝言でべらべら喋っていても、いざ起こそうとすると、まるで目を覚まさない。あれはあれで深く眠っているらしかった。 「なんの話なんだ、あれは」  イルスが面白そうに言う。 「砂糖は二個までらしい。誰かと紅茶でも飲んでいるんだろう」  シュレーが答えると、イルスは指を上げて、自分の胸にとりついているスィグルの頭を指さしてみせた。夢の中でシェルのカップに砂糖を入れているのはこいつだという意味だろう。スィグルはときどき厭がらせで、シェルの飲み物に山ほど角砂糖を入れる。 「足が痺れてる。片方、感覚がない」  彼に言っても仕方がなかったが、シュレーはイルスに不満をうったえた。 「今より、シェルの頭をどかした後のほうが大変だな」  感覚が戻るときの疼痛のことを、イルスは言っているのだろう。シュレーは薄く苦笑した。シェルは寝相が悪く、転がってきたら、どんなものでも乗り越えて寝台から落ちていく。確かに今日は落ちずに持ちこたえただけ運がいいらしい。足を枕に眠られたほうは、たまらないが。 「昨日、お前とやったっけ」  褐色の指が伸びてきて、シュレーの鼻先に触れた。 「さあ、どうだったかな」  答えずにいると、指は頬を滑り、耳の下を通って、シュレーの首を掴み、力強く引き寄せた。イルスの甘い汗のにおいがして、唇が触れ、それから舌が触れた。  挟まれて暑いせいか、スィグルが低くうめき声をあげた。それを気にかけて、シュレーが体を退こうとすると、イルスが追ってきた。長い接吻をする癖がある。  彼が誰かと接吻するのを見ていると、面白かった。貪っているようで。  やっと濡れた唇を離して、イルスはすぐそばにあったスィグルの頭の匂いを嗅いだ。そこにある黒髪は、汗を含んで重たげだった。 「俺が上」  スィグルの頭を抱いたまま、イルスが提案した。 「足が痺れて動けない」  はぐらかすように本当のことを言うと、イルスは薄く笑って答えた。 「俺もこいつが邪魔で動けない」  抱き寄せられた反射か、まだ眠っているスィグルの白い腕が、イルスの体に絡みついていた。 「残念だったな」  シュレーが囁いて慰めると、イルスはまた腕を伸ばして、接吻をねだってきた。  まだ唇が触れないうちに、シェルがきっぱりとした寝言を言った。 「だめです、だめ! もう入れないでください!」  拳を振り上げて、シェルはごろりと寝返りを打った。膝の上を乗り越えられて、急に血流の戻ったシュレーの足に、猛烈な疼痛が襲ってきた。  あまりの痛さに、シュレーは顔をしかめて呻いた。その低く押し殺した声を、長い接吻で貪りながら、イルスの舌が笑っていた。裸足の爪先を伸ばして、痺れる足を踏もうとするイルスと、シュレーは争った。  学棟のほうから、日の出を告げる鐘が鳴りはじめた。  休暇の第一日目だった。  《終わり》 ---------------- 頂いた「お題」より、02.素足に触れる、19.膝枕を消化。 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「氷結」(前編) -----------------------------------------------------------------------  族長に拝謁するため訪れた広間(ダロワージ)は、懐かしい華やかさに満たされていた。気安い楽の音が漂う赤い広間に、王族と廷臣たちが居並び、進み出て跪く者たちに族長は玉座から労う声をかける。  族長リューズ・スィノニムは、人を誉めるのがうまい。宮廷はいつも功を争い、神殿に詣でるように玉座にそれを捧げ、リューズが微笑んで、よくやったと言うのを待った。  今日は自分もそういう一人だ。  エル・ジェレフは拝謁の順序が回ってくるのを待ちながら、見るともなく王族の席を眺めた。いつも空白だった末席に、座っている者がいた。  驚きの声を漏らそうと、唇が薄く開いたが、結局声は出なかった。  帰ってきたのか、と、ジェレフは頭の中でだけ呟いていた。  人質としてタンジールを発ったスィグル・レイラスが、玉座に連なる血族の席にいた。父親と話す人々の姿をじっと興味深げに見守っている彼の姿は、ジェレフが見知っていたものより、ずいぶん成長したように見えた。  震えながら出ていった幼子は、自信ありげな少年の面構えで戻ってきた。  同盟の子供たちか。彼らの異名をジェレフが心の中に反芻したとき、玉座に侍る侍従が呼ばわり、ジェレフに自分たちの順番が来たことを告げた。  進み出て、定められた位置に跪き、エル・ジェレフは族長に平伏した。顔をあげると、族長リューズはいつものように、淡く微笑んでいる。しかし、いつもより格段に機嫌がいいようだった。  それはそうだろう。息子が帰ってきたのだから。 「領境からの長旅、ご苦労だった。活躍は王都まで聞こえていた」  同盟による平和で、暇にまみれている竜の涙たちを、族長は頻繁に地方に派遣した。なにかと役目は言いつけられたが、それは結局、気晴らしの物見遊山の旅だった。  辺境の町や村を巡り、必要があれば癒やせと命じられ、治癒者を集めてジェレフはこれまで戦場のほかに見たこともなかった部族領のそこかしこへ出かけていった。どの土地の者も、英雄譚(ダージ)に聞こえる竜の涙たちの訪れを、心から喜んでくれた。タンジールで憂さを囲っていた英雄たちにとっては、気の晴れる日々だった。 「久々のタンジールで寛ぐがいい、我が英雄たちよ」  そなたらは王宮の至宝。そう囁くこの人の声はいつも甘い。  糖蜜で飼われる虫のように、王族も廷臣も、この人の言葉に群がっている。竜の涙もそうだ。少なくともこの自分は、今この瞬間の栄誉に心底酔っている。 「戻られたのですね」  スィグルのことを、ジェレフは小声で手短に尋ねた。  族長はうっすらと笑った。  日頃あまり愉しむことがなく、美しい作り笑いを浮かべているのが常の顔に、今ばかりは本心からの笑みのように見えた。  早く行け、というように、侍従が次の者たちの名を読み上げた。朝儀はまだまだ続く。ジェレフは去り際の平伏をして、その場を辞した。 「エル・ジェレフ」  回廊で行き合ったスィグルは、満面の笑みだった。 「お帰り」  どちらも同じ挨拶をして、ジェレフはスィグルと握手をした。子供の頃のように、頭を撫でてやるにしては、スィグルは育ちすぎていた。 「いつ戻ったんだ」  よくぞ無事で戻ったと褒め称える調子で尋ねると、スィグルはどこか恥ずかしそうに、結い上げた黒髪の生え際あたりを指で掻いた。 「ひと月前だよ。ジェレフは留守だった」  そこはかとない非難を感じて、エル・ジェレフは苦笑した。スィグルにすれば、長い苦難のあと、やっと戻った故郷には、自分を懐かしむ人々がこぞって待ち受けているものと信じていたのだろう。 「君の父上の命令で、領境を見回りに行っていたんだよ」 「森があふれやしないかと父上は心配なさっている。でもそれは取り越し苦労だ。もしそんな恐れがあれば、事前にわかる」  自信ありげにスィグルは言った。  彼には領境の向こう側に友人がいるからだった。同盟の子供たちだ。  四部族に和平をもたらした彼らのことを、人々はそう呼び習わしている。  スィグルの口ぶりには、彼が他の同盟の子供たちと、個人的な友誼を持っていることが匂っていた。  それは良いことだった。スィグルにはこれまで、友人といえるような相手がほとんどいなかったからだ。幼い頃は双子の弟とべったりと一緒に過ごし、その弟が病みついてからは、人を拒んで孤独に過ごしていた。  あのころの顔と比べると、いま目の前にいるスィグルは、ただ成長したというだけでなく、何かから解放されて、前に進み始めたような気配をしていた。  これからはこの王宮の中にも、親しい相手ができるだろう。元来、人懐こい性格だったのだから。  将来のためにも、そうするべきだった。王宮内でのスィグルの序列は低く、彼を支える派閥は痩せ細っている。力のある者たちを一人でも多く味方につけて、継承争いに備えるべきだ。 「これからどうするんだ」  ジェレフは暇そうに見えるスィグルに尋ねた。 「決めてないよ。部屋に戻ってスフィルの遊び相手でもするか」  複雑そうに言うスィグルの顔を、ジェレフは作り笑いして見下ろした。彼の双子の弟は、結局回復しなかった。肉体は健康になっても、心はばらばらに砕けたままで、幼子のように過ごし、時々発作的に恐慌した。  かつては頻繁だった恐怖の発作のたびに、スフィルは兄を呼んで泣き叫んだものだったが、近頃はそういうことは減っていた。今は父親とべったりだ。ここしばらくの不在の間に、その状況が変わったとは思えなかった。  戻ってきたスィグルを、あの弟は、どのように迎えたのだろう。ジェレフにはそれが、少し心配だった。 「よかったら俺たちの部屋(サロン)に来るか。これから帰郷の祝いを兼ねて、みんなで飲むから」 「行っていいの」  スィグルは一緒に付いて来たそうにしている。  物見遊山にあぶれた者たちに小突かれながら、土産をばらまく約束になっていた。集まるのはジェレフと同じ派閥に属する竜の涙ばかりで、ほかの王族が来るとは思えなかったので、前触れなくスィグルを連れて行っても、さしたる不都合はなさそうだ。  こういう機会にスィグルを、あるじを持たない連中と引き合わせておくのは、悪くない考えだった。スィグルには、ジェレフのほかに親しくしている竜の涙がいないからだ。かつて長老会の一人だったエル・イェズラムは、スィグルに目をかけていたが、彼ももう王宮から去って、墓所におさまってしまった。 「トルレッキオの話をしてくれよ」  ジェレフは頼んだ。するとスィグルは、嬉しそうな顔をした。  屠られる仔牛のように哀れに引っ立てられて行った先は、そう悪い場所ではなかったらしい。それに安堵しつつ、ジェレフは微笑み返した。  世の中には様々な魔法があるが、スィグルが紙の上に描くものも、一種の魔法だった。  床に寝そべっているスィグルが、鵞鳥の羽根をさらさらと紙の上に滑らせると、何もなかったところに、皆が見たことのない異国風の建物が精密に描きだされていった。  部屋(サロン)に集まった連中は、床の円座から身を乗り出して、面白そうにそれをのぞき込み、あれはなんだとか、これはどうなっているのだという勝手な噂話にうち興じている。 「これが学寮で、となりには学棟がある。そこで半日は教授の講義を」  学生たちが椅子に座って席についているのに囲まれて、壇上にいる大人がなにか話しているらしい絵を見せて、スィグルは説明した。 「こんな人数にいっぺんに教えるのか。野蛮な連中だ」  あきれ果てたように、竜の涙の一人が言った。タンジールの王宮では、教師は精々が二、三人の子供を相手にして、じっくりと教育をほどこすのが普通だった。 「たいして教えることもないんだろ。山の連中が大人になるまでに学ぶべきことといったら、丸太の振り回し方と、それからなんだ、馬から落ちる時の叫び方か?」  一人がそう言うと、皆、身をよじって笑った。  皆、酒か麻薬(アスラ)に酔っていた。気晴らしの宴席だから仕方がないが、スィグルはぽかんとして、騒ぐ彼らを見上げている。  まずかったか、と、ジェレフは内心でそう思った。いい機会だと思ったが、まさか自分を待たずに土産の酒樽が四割方飲まれているとは、思いも寄らなかった。こらえ性のない連中だ。 「ジェレフ、トルレッキオは皆が思っているほどには野蛮じゃないよ」  筆を止めて、スィグルはどこか困ったように言い訳をした。ジェレフは彼の隣で、何度も頷いて見せた。 「向こうには向こうの文化があるのさ。タンジールには敵わないけど……」 「楽しかったか」  尋ねると、スィグルは視線を部屋のあちこちに巡らせ、意外に長く答えを悩んでいた。やがて顔を歪めて、スィグルは言った。 「まあね。時々はね」 「どういう時が」 「どうって……なんとなくだよ、なんとなく時々」  困ったように、スィグルは言葉を濁した。いい答えのように、ジェレフには思えた。いつということはなく、なんとなく常に楽しかったのだろう。そういう時間が必要だ。胸を張って生きていくためには。 「天使には会えたのかい」  深く考えず、ジェレフは尋ねた。スィグルはぎょっとした表情をした。 「天使って、なんのことだよ」 「……天使に会いたくてトルレッキオに行く決心をしたんだと思ってた」  そう教えると、スィグルはしばらく、あ然とした顔をして、それから渋面になった。何も答えず、空いていた紙になにか書き始めたスィグルを、ジェレフは戸惑いながら見下ろした。  羽根ペンの先が紙に描き付けているのは、ひとりの少年の姿だった。山エルフのような形(なり)をしているが、スィグルは正神官の髪型をした絵の少年の額に、小さく丸い点をつけた。  神殿種だった。  ジェレフは静かに驚いて、スィグルが差しだした紙を受け取り、ほかの誰も見ないようにしながら、絵を眺めた。  神殿種の絵を描くことは反逆だとされている。 「天使ってこんなのだったよ、ジェレフ」  絵の中の聖刻を持った少年は、うるさそうな顔でこちらを見ていた。今にも口を開いて、あっちにいけと言いそうだ。 「天使ブラン・アムリネス?」  それ以外に考えられなかったが、ジェレフはスィグルに確かめた。 「そうだよ。シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス」 「呼び捨てるな。誰が聞いているか分からないんだから」 「でも本人が呼び捨てにしていいって言ってたよ」  ため息をついて、ジェレフはスィグルが描いた絵を折れないように丸めた。折りたたむのも燃やすのも、細かく千切るのも、どれもまずい気がして、始末に困った。たとえ落書きでも、神聖なものの絵姿だ。 「こんなもの描くべきじゃないよ、スィグル」  年長者の口調で説教をすると、スィグルはさも可笑しそうに小さく吹き出した。 「ジェレフってそんなに信心深いほうだったっけ?」 「そういう問題じゃないんだ。自分の身を守れという話だよ。不敬罪に問われたらどうするんだ」 「懺悔するよ、ブラン・アムリネス本人に」  ジェレフの手から巻き紙をとりあげ、スィグルはあっと止める間もなく、それを粉々になるまで千切った。紙吹雪を撒きちらしながら、あっけにとられるジェレフを、スィグルは面白そうに眺めた。  人は変われるものだということか。ジェレフは内心深く驚いていた。  人質としてタンジールを出る前のスィグルには、とてもこんなことはできなかっただろう。  笑っていたスィグルが、ふと気を引かれたように、部屋(サロン)のすみのほうへ目をやるのに、ジェレフは気づいた。不思議そうに瞬く目で、スィグルは眺めている。  その視線が向けられたほうを振り返ってみて、ジェレフは思わず短く呻いた。  すっかり酔っぱらい、出来上がった連中のうちの二人が、部屋を飾る円柱によりかかって座り、抱き合って口づけを交わしていた。享楽的にすぎる竜の涙たちが集まる場所では、特に珍しい光景ではなかったが、目を背けずに凝視するようなものでもなかった。  ジェレフはそばにあった絹のクッションを、柱のほうへ思いきり投げつけた。 「よそでやれ」  予想もしないことだったのか、抱き合っていた二人はぽかんとしてこちらを見つめ返した。 「そうだ昼間っからなにしてるんだ」  ジェレフの声で事に気づいたらしい他の連中が、面白がって、そこらじゅうにあったクッションやら酒杯やらを、彼らに投げつけはじめた。 「破廉恥なやつらだ」 「お前らだけ楽しむな、酒を飲め」  笑いながら物を投げ合う連中を、ジェレフは額を押さえて眺め、おそるおそる隣に目を戻した。  スィグルはまだ、ぽかんとしていた。 「あれなに」 「枕投げか」 「その前のやつ」  なぜか自分にまで飛んで来たクッションをとりあえず受け止めて、ジェレフは困った。 「やつらは、できてるんだ」 「それどういう意味」 「兄(デン)と弟(ジョット)なんだ」  竜の涙たちには序列はないが、先にいたものが後から来た者の世話をしてやる習わしがあり、先輩のほうは兄で、後輩のほうは弟だった。それは単純に世話役を意味する呼び名だったが、時にはそれ以上の関係を示して使われることもあった。  竜の涙には、男も女もいたが、みな同等に扱われたし、男でも女でも兄は兄で、弟は弟だった。王宮に仕える者たちや、時には王族に手を出しても、竜の涙ならば、ちょっと気の利いた恋愛物(ロマンス)として宮廷詩人たちを喜ばせるばかりで、非難されることはない。それをいいことに、魔法戦士たちはみな頻繁に享楽に耽ったし、時には仲間どうしに唾を付けることもあった。でも長続きはしない。いっときの遊びだ。 「誰か詩人を呼んでこい。やつらを玉座の間(ダロワージ)に晒してやれ」  酔っぱらった誰かが、ふざけてそう言った。冗談ではなかった。その場に居合わせれば巻き込まれる。勝手に名前を使われて、宮廷となく市井となく、とんでもない話を伴奏つきで撒きちらされでもしたら、目も当てられない。 「よそへ行こう」  ジェレフは寝そべったままのスィグルの腕をつかんで立たせた。  宮廷詩人たちは王族でも遠慮なく名前を使う。スィグルは異国から戻ったばかりで、話題も多く、詩人たちにとって面白い名前のはずだった。  人脈をつながせるつもりが、とんだ醜聞がくっついてきたら、目もあてられない。  泥酔したものの体を踏み越えて、ジェレフは興味深げに振り返っているスィグルを、部屋(サロン)から連れ出した。  天使か。  スィグルを連れて聖堂の前を通り抜けながら、ジェレフは反芻した。  礼拝の時間ではない聖堂の近辺には、ほとんど人の気配もしない。近道のために通り抜けていく者がちらほらいるくらいで、がらんと幅広な通路は静まりかえっていた。  高い天井に、足音だけが響いている。  スィグルはなにか考え込むふうに押し黙り、おとなしく半歩遅れてついてきた。  行く宛がなかったので、ジェレフはやむなく、広間(ダロワージ)に向かっていた。王宮のちょうど中心に位置する玉座の間は、そこを経由すると、どこへ行くにも都合が良かったし、広間自体が、この王宮で最大の社交場(サロン)だった。誰彼となく人恋しくなれば、皆そこへ行く。  通り過ぎる聖堂の大扉を、ジェレフは顔を向けて見送った。  スィグルが虜囚の身から救い出されすぐ、まだ頻繁に治療が必要だったころ、せがまれてよくここへ連れてきた。  弱っていた体が、治癒の魔法で回復し、一時的に気が大きくなるせいか、普段は王宮の自室から出ることも恐れていたスィグルは、聖堂へ連れて行けと求めた。  あんまり真剣にそう頼むので、可哀想になって、ジェレフは敷布でくるんだスィグルを抱きかかえて、この聖堂まで何度か通った。あのとき自分に縋り付いていた、痩せ細っているが、異様に力強かったスィグルの腕の感触を、今でも思い出せる。  何をするのかと危ぶんでいると、聖堂の薄暗がりに降り立ったスィグルは、よろめく足取りで、聖像のひとつに寄りすがり、いつまでも飽きもせず、なにか祈り続けていた。  天使ブラン・アムリネスの像だった。  守護天使に祈っているのだろうとジェレフは思っていた。  確かにあの頃は、スィグルにしろスフィルにしろ、大きな救いの手が必要だった。  ジェレフ自身には、実のところあまり信心がなく、慣習に従って型どおりの礼拝をするだけだったので、いつまでも祈り続けるスィグルは異様に思えた。  体調に障らないよう、いつもくどくどと説得して連れ帰らなければならなかった。  あの時。胸を射抜かれた姿をした巨大な白磁の像の足に縋り、スィグルはなにを祈っていたのだろう。祈りの言葉は聞こえなかったが、赦しを乞うているように見えた。  そんなことが、たびたびだったので、人質に行くことを承知したのは、トルレッキオに天使ブラン・アムリネスがいることを知ったせいだと信じていた。像に祈るのはやめて、生きて動いている本物のほうに、会うことにしたのではないかと。  ジェレフはスィグルが先程描いていた、天使の姿だという、聖刻を持った少年の絵姿を思い返した。  あれがブラン・アムリネス?  今まで深く考えたことがなかったせいか、神殿種の天使が少年の姿をしているということに、ジェレフはしっくりこなかった。神殿種は転生を繰り返しているというから、時期によっては子供の姿でいるのかもしれないが、それにしてもあれがブラン・アムリネスとは。 「ジェレフ」  唐突にスィグルに呼び止められ、ジェレフははっとした。  振り返ると、少し前から立ち止まっていたらしいスィグルが、いくらか後ろに佇んでいた。 「聖堂に寄ってみてもいいかい」 「ひとりが良ければ、俺は先にダロワージに行っておくよ」  尋ねると、スィグルは小さく首を横に振ってみせた。一緒に来いという意味らしかった。  大扉を開くと、中は薄暗がりだった。白い磁器のタイルで装飾された丸天井の室内は、だだっ広く、礼拝のときには大勢が集まって跪けるように、鈍い赤の絨毯が敷かれているだけで、中央の祭壇と、壁際を丸くとりかこむ天使像の他は、がらんとして何もなかった。  丸天井には室内の明かりを星のように輝かせるため、小さな鏡が沢山はめ込まれており、天使像の背後にある壁にも、広い聖堂をさらに無限の広さに見せかけるために、継ぎ目のない巨大な一枚鏡がはめ込まれている。  ここに来ると、ふとした瞬間、自分の位置がつかめなくなり酔うような感覚がする。部屋の明るさは、暗視にならないぎりぎりの薄明かりで、それも視覚を混乱させた。  そのように設計されている建物なのだろう。  スィグルは迷うわけもなく、以前通い詰めていた、天使像の前に歩み寄った。静謐なる調停者は、いつもと変わらず、胸を射抜かれて頽(くずお)れる直前のような姿で、壁のそばに建っている。その足に触れ、スィグルはじっと、自分の背丈よりずっと上にある、天使の白い顔を見上げた。 「ぜんぜん似てない。どうしてこんなもんに祈っていたんだろう」  呆れたような声で言い、スィグルはこちらに戻ってきた。彼が以前のように額ずいて祈るのかと思っていたので、ジェレフは拍子抜けした。 「ジェレフ」  すぐ目の前に立って、スィグルは折りいった話のように、話し始めた。 「さっきのだけど」 「さっきの?」 「兄(デン)と弟(ジョット)」  こんなところで蒸し返す話題と思えず、ジェレフは情けない顔で頷いた。神官がいなくてよかった。 「ジェレフにもいるの」 「どういう意味で」  ますます情けなくなり、ジェレフは尋ねた。同じ派閥に属していたり、同じ治癒者であったりという理由で、面倒を見ている弟(ジョット)たちは何人かいた。そういう意味では、ある程度の年齢に達している竜の涙で、弟(ジョット)のいない者などいなかった。  でもスィグルが聞きたいのは、そちらの弟のことではないのだろう。分かっているが、興味本位で聞かれると、答えにくかった。 「ジェレフも柱の陰でああいったことをする相手がいるのかという意味だよ」 「ああいうのは普通は人前でするようなことじゃないよ」 「人前でないところでする相手ならいるの」  逃げようとしたが回り込まれた。ジェレフは観念して、気まずさを紛らわせようと、自分の顎に指をやった。 「今はいないよ。長い旅から戻ったばかりだし」 「……それってどういう意味? 旅に出ると、どうしていなくなるのさ」  失言だった。ジェレフは、不可解そうに顔をしかめるスィグルから、仰向いて目をそらした。聖堂の薄暗い天井には、灯火を映した鏡が星のように瞬いている。 「うぅん……兄(デン)と弟(ジョット)の関係は、タンジールにいる間だけだから」 「どうして?」 「待ってられないからだよ、帰ってくるかどうか分からないんだし」  同盟の今はともかく、竜の涙が王宮を辞すのは、戦場へ赴くためだった。死んで帰ってこない者もいるし、ひとたび出征すれば、何ヶ月も戻らないのが普通だ。その間、王宮に残される片方がいれば、普通は関係を解消して、別の相手を求めるものだった。  それでなくとも、広間(ダロワージ)で生まれた恋は、翌朝までのものというのが、竜の涙たちの普段の暮らしだ。  その話を、幼髪を落としたばかりのスィグルにするのは面はゆかった。いずれ自然に分かればいいことだ。そういうことにして欲しかった。 「じゃあ、ジェレフは今、兄(デン)でも弟(ジョット)でもないわけだ」 「そうだけど、とにかくダロワージまで行かないか」  話をそらそうとして歩き出し始めたジェレフの髪を、スィグルが思い切り引っ張った。 「いたたたたた」  結っていなかった垂れ髪を、手綱のように容赦なく引き寄せられて、ジェレフは思わず屈んだ。その頸(くび)をとらえて縋り付き、スィグルが奪い取るような口付けをしてきた。  ジェレフは困ったが、驚きはしなかった。ここに来るだいぶ前から、そんなような事を狙っている気配がしていたからだ。たぶん自分もしてみたかったのだろう。 「やめとけ、いくらなんでもここはまずい」  言い訳をして、ジェレフはスィグルを引き剥がそうとした。  そうすると、スィグルはまだまだ細身の腕に力をこめ、がっちりと抱きついてくる。  その感触は、以前ここへ運んできた、弱り切った子供だったころのスィグルをジェレフに思い出させた。獲物を掴む猛禽のように、容赦のない力で縋り付いてくる子供。  治癒の力を使うためには、相手の体に触れなければならず、人を恐れて逃げまどう双子を捕まえるのに、随分苦労した。泣き叫ばれると気が咎めて挫(くじ)け、情けなくて止めてしまおうかと度々思った。やがて彼らの信頼は得られたが、そうなると今度は、命綱にしがみつくように、強く抱きついてくる痩せた体を、無理矢理引き剥がして去らねばならないのに、毎度気が滅入った。  ダロワージの恋は一瞬の華よ。皆そんなことを言っている。実際そうだとジェレフも思っていた。自分と抱き合った腕が、これほど強く求めてくることはない。竜の涙が求めるのは、一時の情欲を満たせる相手か、死の恐怖をまぎらわす一瞬の夢かだ。  理屈抜きの保護を求めて、自分を強く抱くスィグルの腕に、一瞬ジェレフは酔い痴れそうになった。  抱いてもいいのではないか、王族でも構わないのだから。英雄たちにはそれが許されている。拒む者はいない。まして本人がそうしろと求めているのだから。  ふと目を向けると、聖堂の壁面を覆う鏡に、抱き合っている自分たちの姿が亡霊のように映されていた。  滑稽な姿だった。ジェレフはその有様を、しばらく横目に眺めた。自分の中で酔いかけていたものが、急激に萎えていくのが感じられた。  竜の涙にはそうでも、石を持たない者たちにとって、ダロワージの恋は一瞬のできごとでは収まらなかった。情事の挙げ句の醜いごたごたはいくらでもあった。  ジェレフはそのようなものに身を浸したくなかった。そして、今まで守ってきたものを、そんな泥沼に付き合わせるのもご免だ。  ジェレフはスィグルの性格をよく把握しているつもりだった。いったん崩れ落ちると、歯止めがきかない。無限に自分を受け入れる相手を、この子は求めるだろう。その相手をするのは、ジェレフには恐ろしかった。  いずれ死なねばならない。英雄らしく。そのとき諦めきれるのか?  どうだろうなあ、とぼんやり呟く自分の声が、内奥から聞こえた気がした。  受け入れるでも、突き放すでもないジェレフを不思議に思ったのか、やがてスィグルが顔を上げて、じっとこちらを見た。天使像を見上げる時と、同じ視線だった。 「もうダロワージに行っていいかな」  静かに問いただすと、スィグルは急に我に返ったように、ぱっと体を離して、一、二歩後ずさった。 「行ってどうするのさ」  スィグルの顔は真剣な無表情だったが、その声は拗ねていた。 「さあ。ほかに行く宛がないからさ」 「じゃあもう僕は帰るよ」  スィグルは尊大に告げた。頭に来ているらしかった。  ジェレフは苦笑した。  勘のいい性分だから、まったく脈がなかったわけではないことは、気付いたのだろう。それで余計に怒っている。  足早に聖堂を出ていくスィグルを、ジェレフは仕方なく、ゆっくりと遅れて追った。  玉座の間(ダロワージ)に行って、誰か、同じ派閥にいる者と、顔を繋がせようと思っていたが、このぶんでは今日は無理だろう。  急ぐことはない。よっぽど嫌われたのでなければ、タンジールにいる限り、また機会はあるだろう。  そう思った矢先、スィグルが引こうとした聖堂の大扉が、外から勢いよく開かれた。驚いて、スィグルが体を退くのが見えた。  廊下の明かりの中に、ジェレフの見知った顔が突っ立っていた。  体重をかけて扉を押し開いたらしい、その人物は、いくぶん前屈みになった姿勢から、無遠慮に目の前にいるスィグルの顔を見上げていた。 「英雄(エル)・ギリス」  彼と睨み合うスィグルの背後から、ジェレフは年若い仲間に挨拶をした。 「英雄(エル)・ジェレフ」  上目遣いのまま、ギリスは応えた。  いいところに来たというか、まずいところで会ったというか、だった。  ギリスはスィグルよりふたつ年上の十六才で、ジェレフと同じ派閥に属している竜の涙だった。  氷のような薄青い蛇眼と、額の石を持っており、彼がその石から授かった魔法も、氷結の技だった。  仲間たちは彼のことを、悪党(ヴァン)・ギリスとあだ名していた。変わり者だったからだ。彼は氷の蛇で、生きているものの血を凍らせることができる。  停戦に阻まれて、ギリスの戦歴はごく僅かだったが、その内容は際だったものだった。彼は戦陣に立つと頼りなげな少年兵だったが、たったひとりで森の守護生物(トゥラシェ)を殺すことができた。一瞬でその場に凍り付く怪物の姿は、見る者に決して忘却をゆるさない強い印象を持っていた。戦いが続いていれば、間違いなく押しも押されぬ大英雄になれただろう。  しかし戦いは終わった。  ギリスは不機嫌そうにしているスィグルの顔をじっと見つめ、そして聞こえよがしな声で、こう言った。 「人食いスィグルだ」  まずいところで会った。ジェレフはそう結論した。 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「氷結」(後編) -----------------------------------------------------------------------  帰り着いたタンジールは喜びの都だと信じていたが、世はさほど単純ではなかった。  スィグルは、戻ってきた兄のことを、双子の弟がどんなに待ちわびていてくれるかと期待したが、スフィルは自分のことを憶えていなかった。  一年ばかりの不在の間に、スフィルは兄がどんな姿だったかを忘れ、焼き付いた記憶の中にある十二才のころのスィグルを求めて、兄上、兄上と叫びながら、当の兄から逃げまどう始末だ。  自分はそんなに変わっただろうか。スィグルにはそういう自覚はなかった。十四才になり、自分が急速に子供ではなくなろうとしていることは、うっすらと感じられるが、昨日と今日でなにかが違うような気はしない。  スフィルは相変わらず幼く見え、同じ日に生まれた双子の弟とは思えなくなった。  幼子というより、まるで獣(けだもの)だ。父リューズの膝に甘えて、餌の肉をねだる様子は、父が飼っている鷹と大差ない。  自分がいない間、そうやって父が弟を養ってきた事実に、スィグルは深い衝撃を受けていた。スフィルが依存の矛先を自分から父に変えただけで、全く回復していないことも衝撃だったが、父がそんな情けない弟を、存外、可愛いがっていることのほうが、スィグルにはつらかった。  自分たち双子が、ほんものの幼子だった頃でさえ、リューズは戦と政治に忙しく、時折顔を合わせて僅かばかり口をきくだけだった。それでも自分たちには優しい父だったと信じているが、スィグルは、父の手からものを食わせてもらったことなど、一度もなかった。  心を失った母の病状は重く、イェズラムはすでに亡く、ジェレフはタンジールにいなかった。考えてみると、自分が頼ってもいい相手は、それで全部だった。父は玉座におり、いつも励ます目で見守ってはくれたが、甘えさせてはくれない。自分がすでに、そんなことを不満に思ってよい年ではないということも、どこか心に重くのしかかった。  やがてスフィルは、自分のことを思い出した。兄上、と呼びかけてくるスフィルの薄青い目と、はじめて視線が合ったときには嬉しかった。  その日から、スィグルはまた弟と抱き合って眠った。  弟の、子供のような寝息を間近に聞いていると、スィグルはひどく安心したが、そうして横たわって眠ると、頻繁にトルレッキオの夢を見て、胸を締め付ける寂しさで目が覚めた。  山の学院で、あれほど帰りたいと願っていたタンジールは、まるで知らない街のようだ。  今では、その楽園にいて、あの山の学院の粗末な部屋に帰りたがっている。  スィグルは自嘲した。  スフィルのお気に入りの女官が迎えに来て、部屋から連れ出すため着衣を改めさせているのを、スィグルは部屋のすみから座って眺めていた。  ダロワージでの晩餐が始まる前の頃合いに、父は自分の着替えをするついでに、スフィルを部屋に来させて、弟に食事をさせていた。スフィルはどこへ行くのか理解しているようで、すでに父上父上とうるさい。 「それではお連れいたします」  こちらに声をかけて、女官はスィグルに一礼した。それに視線だけで応えて、スィグルは座ったままでいた。  スフィルと一緒に来るように、父は言っていたが、ついていったのは初めのうちだけで、居場所がないような気がして、すぐに何かの言い訳をつけて行くのをやめてしまった。  晩餐のための礼服はすでに身につけてあり、髪も結わせたが、早々と玉座の間(ダロワージ)に行ったところで、話す相手もいない。  せっかくジェレフが戻ってきたのに、と、スィグルは恨めしかった。  我ながら、妙なことをしたものだった。  たぶん、寂しかったのだ。  ジェレフは以前なら、顔を合わせると、小さな子供にするように、抱き寄せて頭を撫でてくれたが、回廊では大人にするように握手を求められて、スィグルは内心、面食らった。ジェレフと抱き合うには、もう何か特別の理由が必要な年になったらしい。  怪我でもしてみようか。  そんなことを半ば本気で考えながら、スィグルは立てた自分の膝に頬杖をついて目を閉じた。馬鹿げた話だった。  ひとりで部屋にこもっていても、気が腐るだけだ。  立ち上がって、礼装用の太刀をはき、スィグルは居室を出た。  このままダロワージに行くのも癪なような気分がした。かといって、行く宛もなかった。  一体、この都で暮らしていたころ、自分は日々をどうやって過ごしていたのだったろうか。いつもスフィルと連れだって、あちこち潜り込んでは遊び回っていたような気がするが、ひとりになると、行き場所ひとつ思いつかない。  晩餐など、どうでもいいかという気がした。大して腹も減っていなかった。  苛立ったため息をついて、スィグルは足の向くまま、王宮の通路を歩き始めた。  気がつくと、聖堂の大扉の前に辿り着いていた。  玉座の間を避ける遠回りで、延々と通路を歩いたが、なぜか無意識にここを目指している自分を、うっすらと感じていた。  スィグルにとってここは、幼い頃から、唯一たったひとりでやってくる場所だった。  白磁で形作られた天使像に、こっそりと懺悔をするためだった。  子供のころの自分は、悪気はないのに、なぜだか悪戯ばかりする毎日で、見つかれば叱られてばかりいたが、時には誰にも見つからず遣り仰せた悪戯もあった。何日もすると、決まってそれが後ろめたくなり、誰かに告白したくなったが、母や侍従たちにわざわざ話して説教されるのは嫌だったのだ。  そういう時には、ここに来た。  苦労してスフィルをどこかに置き去りにして、こっそり中に忍び込み、矢を受けた姿の赦しの天使の像に跪き、罪の告白をする。天使はなにも応えないが、きっと許してくれていると、子供の頃のスィグルは純粋にそう信じていた。  すっきりできれば、それで良かった。スィグルの空想の中では、ブラン・アムリネスはいつも自分の味方だった。  可笑しくなって、スィグルは静かに一人笑いした。現実の天使を知ると、それはあまりにも滑稽な空想だった。  もう行こう。  聖堂の扉を開く気になれず、立ち去ろうとした。  目の前にある扉が、勢いよく開かれたのは、ちょうどその瞬間だった。  扉に殴られかけて飛び退き、スィグルは中の薄闇に立っていた者と、まじまじと見つめ合った。  色があるかないかの、ごく薄青い目で、相手はこちらを見返していた。 「エル・ギリス」  昼間の出来事を思い出して、スィグルは憎々しさを隠さずに、相手の名を呼んだ。  彼の額にある竜の涙は、ほとんど透明なように見えた。白く凍ったような結晶を額に飾り、ギリスは面白くもなさそうに、何度か目を瞬いた。 「人食いスィグルか」  昼間と同じことを、彼は言った。  礼装しているギリスは、これからダロワージの晩餐に行くのだろうと、スィグルは思った。相手に自分と話す気があるとは思えなかったし、それはこちらも同じだった。出会い頭に侮辱してくるような相手とは、顔を合わせているのも不愉快だ。  スィグルが足早に歩きだそうとすると、ギリスはのんびりと背中に呼びかけてきた。 「お前、昼間ここでジェレフを口説いたろ」  ぎょっとして、スィグルは立ち止まった。見てたのか。 「なんで振られたんだよ」  振り返って睨むと、いかにも不思議そうに、ギリスは言った。 「そんなの余計なお世話だろ……」 「ジェレフは来る者拒まずなんだぜ。いつも相手をとっかえひっかえさ。お前はよっぽどダメだったのかな」  むっとして、スィグルは口を引き結んだ。何が言いたいんだ、こいつは。  ギリスは押し黙って、スィグルが返事をしないのを、たっぷり時間をかけて確かめた。それから彼は、また口を開いた。 「ジェレフがお前に謝れってさ。なんのことか分からないけど、とにかく悪かったな、人食いスィグル」  あっけらかんとした口ぶりに、スィグルは腹が立つのを通り越して、唖然とした。ギリスには悪意があるのだと思っていたが、そうでもないのではないか。 「それのことだろ」 「それって?」  スィグルが教えてやっても、ギリスは分かっていないようだった。 「人食いスィグルだよ」 「なにがいけないんだ」  目を瞬かせて、ギリスは不思議がっている。 「僕に面と向かってそういう事を言うのは、他意があるとしか思えない」 「他意って」 「僕を侮辱してるとしか思えないってことだよ」  鈍い相手に焦れて、きっぱり言ってやると、ギリスはやっと、ああなるほどねという顔を見せた。 「俺は誉めてるんだよ」  真顔で訂正してから、ギリスはきゅうに、にっこりと微笑んだ。スィグルは彼のその表情の明るさに、一瞬たじろいだ。 「でも天使には謝ったほうがいいぞ。きっと怒っているから」  聖堂の中を示して、ギリスはそう忠告してきた。スィグルは開いた口が塞がらなかった。 「もう謝ったよ……」 「そうか。じゃあ天使は許してくれる。俺もいつも謝りに来るんだ。ついうっかり悪さをしたときは」  こいつは正気ではないのではないかと、スィグルは薄気味悪くなった。見れば、自分よりひとつふたつは年上に見える。竜の涙の中には、石のせいで、どことなく気が触れているような者もいた。よほどひどくなければ、そういう者でも野放しにされているのが常だった。 「どこへ行こうか」  首をかしげて、ギリスはさも当たり前のように誘ってきた。  まるで、これから一緒にどこかへ連れだって出かけていくかのような口ぶりだ。 「遠乗りは?」  王宮の外を示しているつもりか、ギリスは視線で天井を指した。 「玉座の間の晩餐会だろ、これから」  スィグルが教えてやると、ギリスは、そうだったという顔をした。そして、唐突にスィグルの手首をとって、走るような早足で歩き始めた。彼は玉座の間に向かっているらしかった。  手を引かれてついていきながら、スィグルはまだ唖然としていた。  ギリスは、年の割に背の足りないスィグルより、頭半分ほど上背があった。  見上げると、片耳にだけ、スィグルには見覚えのある、紫の石の耳飾りをしている。エル・イェズラムのものだった。  なぜ彼が、それを持っているのか、歩きながらスィグルは考えた。まさか盗んだわけではないだろう。形見分けしてもらったものを、身につけているのではないかと思えた。  竜の涙たちは、親しい者が死ぬと、愛用品を形見として分け合って、自分の身近に置いておく習慣を持っている。彼らは仲間の死を英雄譚(ダージ)の完結として祝うが、やはり悲しいのだ。心の中では。 「イェズラムの、耳飾り」  呼びかけると、エル・ギリスはこちらを横目に見て、またにっこりと笑った。 「お前はイェズの新しい星。イェズはお前に仕えろと言うけど、いったいお前はどんな星なんだろうな、人食いスィグル」  角を曲がれば、玉座の間だった。人々の賑わいが、すでに廊下まで聞こえていた。  壁際にスィグルの体を押しつけて、自分もいっしょに隠れ、ギリスは広間の一角を指さして示した。  そこには極彩色に彩られた、大きな振り子時計が置かれていた。  とても珍しいものだった。太祖の時代からタンジールにあり、王宮に時を知らせている。スィグルはこれのほかに時計を見たことがなかった。あらゆる王宮の典礼は、この時計に従って行われていた。  握ったままでいたスィグルの手を、時計に向けさせ、ギリスはすぐ傍で、楽しそうに囁いた。 「チクタク……」  歌うようなその声の調子に、スィグルは不思議になって、ギリスの淡い色の目を見上げた。 「念動が使えるんだろ。時間をすすめて、さっさと食おう。夜は短いし」  針を動かせと、ギリスは言っているらしかった。スィグルは唇を開いたまま、返す言葉を思いつかなくなった。昔、あの時計の振り子に悪戯をして、こっぴどく叱られたことがあった。あれはタンジールの宝で、子供が気安く触れてよいものではない。  それを念動で動かせって?  冗談ではない。正気の沙汰と思えなかった。  スィグルは思わず、ギリスに笑いかけていた。 「壊したらどうするんだよ」 「罪を告白しに参りました。ぺらぺら。レイラス、汝許されり」  作り声で、ギリスはさらりとそう返事をした。懺悔をすりゃいいじゃないかと、彼は言っているのだった。  そういえば昼間も、ついさっきも、こいつはなにをしに聖堂へ来ていたんだろう。面白くなって、スィグルはそれを想像した。天使になにか、謝りに来ていたのではないか。一日に二度もか。  あれが本人でなく、ただの聖像でよかった。もしギリスが天使本人に、日に何度も懺悔を求めたら、きっとぶちきれられて、大変なことになる。 「悪党(ヴァン)・ギリス」 「俺は英雄(エル)・ギリスだよ」  彼のあだ名を呼んでやると、ギリスは悪びれもせず律儀に訂正してきた。 「失敗したら僕は逃げるから」 「俺もだよ」  悪戯をしようとすると、弟のスフィルは、いつも不安そうな目をした。それでも兄と一緒にいたくて、あいつは我慢強く傍にとどまっていた。ギリスのように、同じ悪童の目で、見つめ返してきたりはしなかった。  スィグルは掴まれて掲げられた手の先を見つめ直した。振り子の揺れる大きな文字盤には、透かし模様をほどこされた長い針が二本ついている。スィグルは慎重に時を進めた。広間にいる者たちは、おしゃべりに夢中になっており、いつもより早く時が経っているのに、気付いている者はいないようだった。  リーン、と大きな音をたてて、鈴がなり始めた。時計の打つ時報だった。驚いたふうに、予定を管理する侍従たちが色めきたった。とっくに晩餐を始める時刻なのに、玉座はからで、族長は遅刻していた。  ばたばたと侍従たちが広間から走り出てきて、スィグルたちの前を通り抜けていった。たぶん族長を急かしに、部屋まで行くのだ。  避ける必要もないのに、思わずギリスと二人で、壁にぴったりと寄り、快い後ろめたさによる笑いを隠していた。  広間からは晩餐の始まりを告げ知らせる侍従たちの声が聞こえた。  父は、スィグルが不在の間に典礼を変えており、晩餐の開始は自分を待つのではなく、時計に従うようにと命じていたのだ。部屋でスフィルに心ゆくまで餌を与えてからしか、父はやってこない。 「飯だ」  空腹そうに、広間からもれてくる食事のにおいを嗅いで、ギリスは目を細めた。  スィグルには王族の席に自分のための場所があった。いつも、がらんとしたそこで、スィグルは一人で食事をとった。以前ならスフィルとふたり、並んで座っていた場所で。  手を離そうとしたギリスの腕をとって、スィグルは彼を引き留めた。  とっさのことで、足止めされ振り返ったギリスに、なんと言ってよいか、スィグルは困った。冷たい印象のある淡い目で、ギリスはじっとこちらを見ていた。 「あのさ、よかったら僕の席にいっしょに来ない」  よく言ったもんだと自分でも驚いた。  寂しいなと思った。それが本音だった。  人と一緒に食事をするのに慣れきったあとでは、自分だけで座るのは、ひどく寂しくてつらかった。誰でもいいから傍に座っていてほしかった。  身をかがめて、ギリスは急に、スィグルに口付けをした。  人前でするようなことじゃないって、ジェレフは言ってたけど。触れる唇を感じながら、スィグルは半眼になった。  ややあってから、ギリスは体を離し、首をかしげた。 「お前、下手だな。人食いスィグル。餓鬼の遊びじゃあるまいし、俺が舌入れようとしたら、口開けろ。そんなだからジェレフに逃げられんだよ」  あけすけに言うギリスは怒っているようではなかったが、スィグルはまた唖然とした。 「まあいいや、それは後で。とにかく今は飯だから。王族の席の料理って美味いのか」  また前触れなく手を引かれて、スィグルはよろめきながら広間に踏み込んだ。ギリスはよほど空腹なのか、舌なめずりしながら、今夜の席を目指していた。  からっぽのままの玉座を、スィグルは見るともなく見やった。もし後でやってきて、自分の席にこんなのが座っているのを見たら、父上はなんと思うだろう。王族が席に招くのは、自分を推す派閥の者たちで、ごくお気に入りの取り巻きだけだ。それは自分の持つ派閥の力を、族長に見せるための行為だった。  父は自分が、エル・ギリスを派閥に引き入れたのだと思うだろう。  実際には、何だか良く分からない縁でやってきた、得体の知れないやつなのに。  一緒に席につきながら、ギリスは嬉しそうに、王族のための贅を尽くした食事を眺めていた。  まあいいか。  スィグルはぼんやりと、そう考えた。  父がどう思おうと、そんなことは、まあいい。  毎晩、違った献立で用意される食事は、うんざりするほどの量があり、スィグルの嫌いなものも多かった。食べきれずに残すと、以前と違って、ひどく気がとがめた。  今では食卓の向かいにいて、食べ物を粗末にするなレイラスと怒る天使はいなかったし、もっと食えスィグル、と説教をするイルスもいない。どんな味がするか、いちいち説明してくれるシェルも、もう遠い森の故郷に帰ってしまった。  彼らの代わりに、同じ皿から食べる者がいてくれれば、億劫なだけだった晩餐も、いくらか気が軽くなるだろう。 「ギリス」  水をついでいる女官から、杯を受け取りながら、スィグルはもう食べ始めているギリスを見やった。 「それ、美味しいのかい」  尋ねると、ギリスは黙って頷いた。黙々と平らげていく、いい食いっぷりだった。  ギリスは物語をねだる子供のように、トルレッキオの話をしろとせがんだ。異国の話や、旅の話を、彼はいかにも興味深げに黙って聞いていた。  旅をしたことがないのだと、ギリスは話した。彼がタンジールを出たことがあるのは、片手で数えられるほどの戦のためだけで、彼の行き来した道のりは、旅ではなく行軍だったからだ。 「それでも俺は戦は好きだけど」  スィグルの杯に指を突っ込んで、ギリスは中に残っていた水をくるくるとかき混ぜた。  杯から湯気のようなものが立ち、なにごとかとスィグルが目を向けると、中の水は銀の酒杯を白く曇らせて、唐突に凍り付いた。  竜の涙が手慰みに魔法を使うとは思いもよらず、スィグルはあっけにとられた。  そんな驚きをよそに、ギリスは酒杯をさかさまにして、凍ったものを取りだそうと、やたらと振り回している。  スィグルは酒杯を取り上げて、中身を念動で砕いた。逆さまにして振ると、砕けた氷が、ばらばらと食事の膳のうえに落ちてきた。  ギリスは面白そうに笑って、氷をつまみあげ、口に放り込んで、音高く噛み砕いた。  氷結の魔法か、と、スィグルは思った。スィグルはギリスの英雄譚(ダージ)を知らなかった。一度、詩人に頼んで聴かせてもらうのもいいだろう。こんな、ちゃらんぽらんな奴が、戦場では本当に役に立つのか、スィグルには怪しく思えた。 「どこの戦線で戦ったんだい」  溶けていく氷を面白そうに見ているギリスに、スィグルは尋ねた。浪費される魔力を惜しいと思わないなんて、命知らずなのか、よほどの馬鹿かだ。 「ヤンファールの東」  彼が言う場所は、停戦の使者が白羽の紋章を運んでくる以前は、森エルフ領からの侵略軍と激しい攻防戦が行われていた場所だった。  部族領は北を山エルフ族と接しており、東側には森エルフ族の領土があった。両軍は同盟しており、連動して攻撃してきたが、おしなべて、守護生物(トゥラシェ)を率いてくる森からの敵のほうが、手強いという印象があった。  父リューズは竜の涙たちを主に、その激戦区に投入していたという。恐怖を醸す異様な敵と相対する兵を鼓舞するために、竜の涙たちが用いる並はずれた魔法を父は必要としたのだ。  部族の戦史において、長らく魔法戦士たちは、戦意を高揚させるための芝居を行う俳優のようなものだった。彼らの戦いは華々しかったが、ひとりで戦をするわけではない。実際に戦うのは、平凡な兵たちであり、強力な魔法戦士が先陣を切ることで、彼らはそれについていくことができる。  実際の戦力として魔法戦士たちを戦線に投入したのは、リューズ・スィノニムの代が初めてだった。族長リューズは竜の涙だけの一軍を組織して、守護生物(トゥラシェ)が防衛する敵軍に突撃させた。敵の司令塔をねらい打ちする速攻の作戦だった。  それによって、多くの魔法戦士が物言わぬ石となって王宮の墓所に戻るようになったが、負けがこんでいた戦いは優勢に転じ、リューズは戦上手だと言われるようになった。  要するにお前の父は、他人の命を惜しまないことによって、名君になったのだ。  トルレッキオに向かう道々、エル・イェズラムはそのように話していた。父を崇拝していたスィグルにとって、彼の皮肉めいた語り口は、あまり気持ちのいいものではなかったが、気の晴れる勝ち戦の物語は、先行きの暗い旅のさなかに、とてもいい助けだった。  父も停戦の直前まで、ヤンファールの東で戦っていたはずだ。ということは、ギリスも族長直属の軍にいて、例の戦法のために、守護生物(トゥラシェ)のひしめく敵陣に突撃をかけたはずだった。  よくそんな、恐ろしい目に耐えられるなと、スィグルは目の前にいるギリスを眺めた。どこにそんな勇気があるのか、確かめたい衝動にかられる。 「怖かっただろう」  怖かったと言ってほしくて、スィグルは尋ねた。もし自分だったら、恐ろしくて一歩も動けないに違いない。 「怖くないんだ、俺は」  退屈そうに、ギリスは答えた。ずいぶんと格好をつけたふうな返事に、スィグルがむっとするのを見て、ギリスは笑った。 「感じないんだ。怖いとか、苦しいとか、痛いとか、そういうのを。怪我してても気付かないしさ。詩人は俺のことを、無痛のエル・ギリスって。そのまんまだな」  もう腹が減っているわけではないだろうが、手持ちぶさたなのか、ギリスは膳に残っていた果物をしばらく舐めてから、口に収めた。 「痛くない?」  信じられなくて、スィグルは聞き返した。そうだと言うかわりに、ギリスは屈託のない笑みを浮かべた。めったに笑わないが、笑うと子供のような底抜けの明るさだった。その表情は見ているこちらまで和ませたが、それはまさしく、なんの苦労も知らない幼児の表情だった。 「石のせいなのか」 「そうらしいけど。便利だろ。麻薬(アスラ)も使わなくていいし。俺は幸せなやつなんだよ」  確かにそうだろう。石に殺される恐怖も、苦痛も感じずに、強大な魔力と英雄譚(ダージ)だけを手に入れられるなら、そんな快感はこの世に他にはないだろう。  苦しみ抜いて死んでいく他の魔法戦士たちの物語と引き比べて、あまりにも狡(ずる)いようにスィグルには思え、思わず顔をしかめてギリスを見つめた。竜の涙たちが、彼を悪党(ヴァン)と呼ぶのは、ギリスが子供っぽい悪戯をするからではないのではないか。 「だけどイェズラムは俺が可哀想だって」  耳飾りに触れて、ギリスは言った。彼はまるで、今もまだイェズラムが生きているように話している。 「痛みのない一生は、つまらないんだって」  残念そうに、ギリスは話した。  そうかもしれない。何を食べても味がしない食事のように。 「だからお前に仕えろと、イェズラムに言われた。きっと痛い目にあえるから」  にっこりと笑って話すギリスが、急にこちらに話を向けたので、スィグルは意表を突かれた。 「お前は新星だから、俺が族長にしてやる。その道のりは途方もなく辛く苦しいらしい。それでも俺には耐えられる。もしも、それが本当に辛くて苦しくても、それはそれで、俺には幸せだ」  退屈なんだ、とギリスは小声で付け加えた。それが彼の感じる、唯一の苦痛であるかのようだった。 「どうしようか」  ギリスの声は、あっさりと響いたが、彼は即位にまつわるスィグルの意志を問いただしているようだった。  すっかり溶けきった氷は、膳の上に小さな水たまりを作っていた。それをギリスは指でなぞり、彼の指が通ったあとには、薄氷が残された。  スィグルは玉座の間に居並ぶ兄弟たちを見回した。王宮を細分する派閥の有様が、そこには描き出されていた。  強権を持つ父の威力のため、継承争いはまだ本格化していなかった。しかしそれが一度始まれば、飢えた蛇の巣穴に生き餌の鼠を放り込んだようになるに違いない。  同盟の人質に選ばれたとき、スィグルには為す術がなかった。自分の身を守ってくれる権力に、まったく縁遠かったからだ。自分の命を賭して、弟ひとりを守ってやるのが精々だった。  あれと同じことを、二度もやるのか。次には間違いなく死ぬことになるだろう。  兄弟たちの席には、力を持った貴族や、廷臣たちが侍り、賑やかだったが、自分のそばにいるのは、痛みを感じないという、この竜の涙ひとりだけだった。 「お前になにができるっていうんだ」  スィグルは静かに吐き捨てた。ギリスはうっすらと微笑んだ。 「凍らせる」  声をひそめて答えるギリスの言葉は、まるで呪文のようだった。なにかが弾ける音がして、広間に仕える女官が悲鳴を上げるのが聞こえた。  スィグルはその声に辺りを見回した。玉座の両翼に並ぶ兄弟たちの席で、凍り付いた杯が次々に弾け飛んでいた。飲もうとした酒杯を割られた者もいた。  唖然として顔を見たスィグルに、ギリスは悪童の顔で笑いかえしてきた。 「逃げよう」  スィグルの手を引いて、ギリスは小声で誘った。誘われるまま、スィグルは立ち上がった。  広間にいる竜の涙たちが、悪党(ヴァン)・ギリスの悪戯を咎める声を上げていた。人を驚かすギリスの悪戯は、どうせいつものことだった。王族をもからかう恐れ知らずは、竜の涙の特権だ。  しかし手を引かれてダロワージを走り抜けながら、スィグルは彼が、あれを悪戯でやったわけではないことを理解していた。  なにができるんだという、自分の問いに、彼は答えたのだ。  あの広間にいる兄弟たち全員を、彼は一瞬で殺すことができる。  そんなことは魔法を使える者なら、誰にでもできるかもしれない。ただ、やらないだけで。  だが自分には簡単なことだと、ギリスは教えていた。誰かがそれを命じれば、やってのけることができる。  父が彼を敵の怪物に突撃させたように、自分の敵を打ち砕くため、彼を使うことができれば。 「俺を痛い目にあわせてくれよ、人食いスィグル」  屈託のない笑みで、彼は求めた。  スィグルは彼の目の奥で凍り付いている何かに、微笑み返した。  回廊を抜け、入り組んだ通路をゆく王宮の道筋は、古い迷宮のようだった。知り尽くした道を、ギリスは走り抜けていく。  現れた赤い扉を押し開くと、庭園があらわれた。棕櫚の茂る四角い中庭の太陽はすでに落ち、灯された薄明かりが、華麗な噴水を照らしていた。 「俺たち兄(デン)と弟(ジョット)だろ?」  そう問いかけて、ギリスはスィグルを抱きしめた。  強い腕だった。縋り付くような抱擁は、寂しさを感じないものがするものとは思えなかった。ただ感じないだけで、その感情は、おそらくギリスの中にある。ひどく堅く凍り付いて。  同じ強さで抱き返して、スィグルは彼に縋り付いてみた。ギリスはため息をもらして、口付けをした。  開いたままだった赤い扉を、スィグルは魔法を使って閉じた。それは人前でするようなことではないらしいから。  ばたんと音をたてて閉じた扉に目をやりもせず、ギリスは抱擁に身を捩った。  赤い扉がみるみる白く凍り付いていくのを、スィグルは眺めた。  今宵、あの扉を開くことができる者は、もういないだろう。  ひどく寒かったが、スィグルは氷結の魔導師の熱く灼けるような腕に身を任せた。その熱が、彼の中の氷を溶かせはしないかと思いながら。 「チュンチュンだ」  白み始めた庭園の大天井を見上げて、ギリスは子供っぽく囀(さえず)ってみせた。確かに棕櫚の葉を震わせて飛んで回る鳥が鳴いていた。  もたれかかった噴水が凍り付いており、寒いのでスィグルは半裸のギリスの体にしがみついていた。 「お前は、もっと練習しないとな」  冷えた指でスィグルの体を抱いて、ギリスは満足そうに感想を述べた。 「この寒いのは、わざとなのかい。それとも魔法が洩れてるのかい」  恨みをこめて、スィグルは尋ねた。ギリスは真顔で、言われたことの意味を考えているらしかった。  不意にギリスが噴水の水を手ですくい取り、素早くそれを凍らせて、スィグルの胸にまき散らした。あまりの冷たさに、ひっと喉が鳴ったが、ギリスはそれを嬉しそうに笑い、氷ごとスィグルを抱きしめた。 「これが好き」 「勘弁してよ……冷たいのも感じないのか?」 「それは感じるよ。熱いのも感じるよ。他にもいろいろ」  顎を掴んで口付けをさせながら、ギリスは低い声で甘く唸った。その舌は熱かった。温度差の激しい男だった。 「気持ちいいな、これ。一時間に一回くらいしたいな」 「じゃあダロワージで時報が鳴るたびにすれば?」  皮肉をこめた冗談のつもりだったが、ギリスは納得したように、深く頷いただけだった。  夜の間、話すともなく話したが、ギリスはまったく冗談が理解できないらしかった。なんでも真に受けて、照れ隠しの悪態まで本気に受け取っていた。  恥ずかしいという感覚も、ギリスには理解できないらしい。  深く抱き合うと、ギリスは臆面もなく嬉しげに、すごく気持ちいいと言った。そして、幸せだ、と、いかにも安直なことを平気で口にする。  スィグルはそれに脳天を打ち抜かれたような衝撃を感じた。これまで、それほど真っ直ぐに自分を受け入れてくれた者はいなかった。  たぶんギリスは誰にでもそうなのだろうが。  人並みの羞恥心もなく、袖にされた時の苦痛も感じないので、ギリスはダロワージで人並み以上の場数を踏んでいるらしかった。嘘をつかない本人がそう言うのだから間違いないだろうし、慣れた手際がそれ以上に正直だ。  これが大人たちの言う、ダロワージの恋というやつかと、スィグルはがっかりした気分で納得した。皆がこぞって酔うのだから、さぞかし良いものだろうと思っていた。  確かに良かったかもしれないが。  こんなもので寂しさが紛れるやつがいるのが不思議だ。寝不足になるだけだ。あれこれやってるうちに朝が来て、それで終わりなんだから。  太陽の熱で溶かされたのか、凍り付いていた庭園の赤い扉は、もう白んではいなかった。 「お前はジェレフが好きなのか?」  抱き合ったまま、ギリスはあっけらかんと尋ねてきた。 「え?」  聞こえていたが、スィグルは思わず聞き返していた。なぜそんな話をするのか、良く分からなかった。 「口説くんだったら、ジェレフの弱点を教えてやろうか?」 「え?」  冗談で言っているわけではないはずの、ギリスの真顔に、スィグルはもう一度尋ねてみた。 「あいつは結構、耳が弱いらしいぞ。前にそんな話をどっかで」 「いいよそんなの聞きたくないから」  噛みつくように言って黙らせると、ギリスはかすかに驚いた顔をした。 「でもさ、もう口説かないの? お前ジェレフが好きなんだろ」  スィグルはむしゃくしゃして眠気に重くなった瞼を手のひらで擦った。 「好きだよ。それがどうしたっていうんだ」 「やっぱり」  ギリスは深く納得したふうに相づちを打つ。スィグルは恥ずかしくなって、顔をしかめた。 「でももう口説かないよ」 「なんで」 「ジェレフがいやだっていうんだから深追いしてもしょうがないだろ。それに、お前がいれば別にいいだろ」  説いて聞かせると、ギリスはしばらく考え込んだ。  馬鹿なんじゃないか。スィグルはじっと物思いに耽っているギリスの顔を、いらいらしながら間近に見上げた。 「今ちょっとだけ、痛いっていうのが、どういう感じか分かった気がする」  びっくりしたように、ギリスは言った。 「は?」  心底苛立って、スィグルは話の筋道を問いただした。 「お前がジェレフを好きだっていうと、腹の上のこのへんがつらい。飯の前みたいに」 「ああそうか、朝飯前だからじゃないの」  ギリスが言わんとするところが、スィグルには分かったが、理解していない本人に、わざわざ説明してやる気がしなかった。ギリスには胸はなくて腹と腹の上があるだけなのだから、真面目に取り合っても馬鹿をみるだけだ。 「俺とお前って、今日も兄(デン)と弟(ジョット)? それとも昨日だけ?」  きゅうに気になったというように、ギリスが尋ねてきた。スィグルはあくびをした。 「今日もそうでいいよ」 「じゃあ、明日は?」 「明日もそうでいいけど」 「じゃあ、明後日とか、その次は?」  毎日同じことを聞かれそうだった。おはよう、人食いスィグル、今日の俺とお前って、兄(デン)と弟(ジョット)だっけ。それとも違うんだっけ。真顔でそう聞くギリスが容易に想像できる。違うとか、そうだとか、一日ごとに答えないといけないものなのだろうか。  スィグルは何とはなしに寂しくなって、低く呻くようなため息をついた。ギリスは答えを待っているふうに、じっとその姿を見ている。 「ギリスはいつまでそうであって欲しいわけ?」  頬杖をついて、スィグルは効率のいい質問を与えてやった。ギリスはその画期的な発想に感心したらしかった。しばらく考え、それからギリスは回答を出した。 「俺が死ぬまで」  約束できない。そういう気がしたが、スィグルは嘘をつくことができた。そうなるといいと思うことを、事実として与えても、ギリスは恨まないのではないか。 「じゃあ、そういうことにしよう」  目を合わせずに答えると、ギリスは嬉しげな小声で、うん、と子供のように承知した。 「俺、長生きしよう」  本気で言っているはずのギリスがあまりに可笑しく、スィグルは吹き出した。首をそらせて大笑いしているスィグルを、ギリスはきょとんとして眺めている。  竜の涙が、どれくらい長生きできるのか、考えてみても無駄だった。でも確かに、一日でも長く生きていてほしかった。そうしろと頼めば、ギリスはそうする。それが不名誉ではないかという苦痛を、彼は感じないだろうから。 「だったら魔法を控えたらどうかな。使っていいときは、僕が教えてやるから」 「うん、じゃあそうしようか」  自分が一晩かけて凍り付かせた噴水を、ギリスは振り返った。小部屋ほどもある噴水のたたえる水が、すっかり霙(みぞれ)になっており、中央に立った円柱状の吹き出し口は、堅く凍り付いて、昨夜は涼しげに沢山の水を撒いていたのが、白い氷をまといつかせたまま静止していた。  みし、と石が鳴ったような気がした。  スィグルはギリスの肩越しにそれを見て、いやな予感がした。  それは感じた時点ですでに的中したようなものだった。  みしみしと円柱が震え始め、すぐに亀裂が現れた。どかんと激しい音をたてて、噴水が破裂したのは、そのすぐ後だ。  とっさに二人で床に伏せたが、水圧で破壊された石と氷の塊が、矢のように庭園に降り注いだ。  すぐ隣で、ギリスが嬉しげに悲鳴をあげている。待ち受けたような声だった。 「服着て逃げようぜ」 「馬鹿じゃないのか、分かっててやったのか!?」 「やってみたらどうなるかと思って」  脱ぎ捨ててあった長衣(ジュラバ)を拾い上げて着ながら、噴水からあふれ出てきた洪水を避けて、二人で庭園から逃げ出した。  ギリスはどこかに向かって走っているようだった。  スィグルには、彼がどこへ行こうとしているのか予想がついた。  天使のところだ。そうに決まっている。  罪を告白しに参りました。今朝、噴水を壊しました。でも悪気はなかったんです。ただ、やってみたらどうなるかと思って。  ああそうか。それなら仕方ないな。ヴァン・ギリス、汝許されり。  シュレーが真顔でそう言うところを想像して、走りながらスィグルは腹の皮がよじれそうだった。  懐かしい彼らを思い出しても、もう寂しくはなかった。一緒に走れる者がいるから。  それが嬉しくて、スィグルは笑いながら、黒髪をなびかせて走るギリスの後を追いかけた。  追いついてきたスィグルの手を、ギリスは強く握りしめてくれた。 ----------------------------------------------------------------------- 習作「氷結」(エピローグ) -----------------------------------------------------------------------  朝儀にエル・ギリスを連れて行くのは、毎度のことながら冷や冷やものだった。とにかく終わったと、ジェレフはほっと肩の荷をおろした。  タンジールに戻ったのも束の間、また旅に出ることになった。  今度は領境を越えて南へ、スィグルの友である同盟の子供たちの一人が、竜の涙を患っているので、その診察をしてくるよう命じられたのだ。  そういったことは何も自分でなくとも構わないと思うが、どうやらスィグルのたっての願いのようだった。彼は詩人たちの詠う英雄譚(ダージ)を頭から信じるようなところがあり、ジェレフには癒せない病はないと思っている節がある。  買いかぶりなのだ。  むしろ魔法で救える者はごく一握りで、戦闘や事故による突発的な負傷であれば回復させることができても、長年患った病は手を施すだけ無駄なことが多かった。  ましてその病が竜の涙ともなると、そんなものが癒せるのなら、誰も苦労はしない。  しかし族長が行ってこいと命じるのだから、ジェレフに逆らう気はなかった。話には聞く、海というものを、命のあるうちに自分の目で見てみるのも悪くはない。  そう思うのは自分だけではないらしく、南行の旅には志願者が多かった。部族に使役される立場の自分たちが、自由に旅ができるのも、平和ならではの事だ。  玉座の間(ダロワージ)での礼装を、簡素な旅装に改めて、螺旋貫道に続く王宮の出口に、エル・ギリスが現れた。やっと来たかとジェレフはため息をついて、のんびり歩いてくる彼を迎えた。 「なにをやってたんだ。拝謁のあと、どれだけ時間がたったか分かっているのか」  呆れて尋ねると、ギリスは色の薄い目で、不思議そうにこちらを見つめてきた。 「いいじゃん、急ぐ旅でもないんだし。聖堂で旅の無事を祈ってたんだよ。ジェレフの無事もいちおう祈ってやったから」 「それは助かったよ」  笑いながら皮肉を言ってやったが、ギリスは真顔で、どういたしましてと答えた。  つくづく変わり者だった。  彼が片耳に付けている紫の石の耳飾りに、ジェレフは目を留めた。旅装で身につけるには、その礼装用の耳飾りは少々大げさに見えたが、ギリスはそんなことに頓着しないのだろう。後見人だったエル・イェズラムから譲り受けた形見の品として、いつも同じ物を耳に飾っている。  エル・イェズラムはこのギリスを気に入っていたようだったが、いったいどこが目にかなったのか、ジェレフには良く分からなかった。戦場での働きぶりを、単純に好まれたのかもしれないが、宮廷にいるときのギリスは、誰も兄役を引き受けたがらないような厄介者だった。あらゆる者が敬遠して突っぱねるので、結局、最長老の一人であるエル・イェズラムのところまでお鉢が回っていった次第だった。  ところ構わず魔法を使うし、悪戯をするしで、ギリスは仲間を困らせたが、実際のところ皆が彼を敬遠したのは、彼が石による病苦と縁遠いせいだった。戦場から帰還すると、竜の涙たちは多かれ少なかれ、成長した石に苦しめられ、しばらくは痛みと麻薬(アスラ)の煙に包まれて鬱々とした日を過ごすことになる。そのとき自分たちの部屋に、ギリスが現れると、ただでさえ痛いものが余計につらく感じられるのだ。  ギリスは変わり者だが、彼自身には仲間から遠ざけられるほどの罪はなかった。ただの悪戯者であれば、おそらくこの、少々足りないような気配のする少年は、皆に親しまれただろう。  笑った顔がいいと、エル・イェズラムは誉めていた。確かにそうで、ギリスはまだ石の痛みを知らない幼いものたちには、いっしょに遊んでくれる兄貴分として愛されているようだった。 「俺がいなくて大丈夫かな?」  王宮のほうを振り返って、ギリスが珍しく心配げな顔をした。ジェレフは彼が、自分の小さな取り巻きたちのことを案じているのかと思った。ギリスが戦でない理由でタンジールを離れるのは、これが初めてで、ギリスはどことなく落ち着かないようだった。 「ジェレフ、俺やっぱり行くの止そうかな」 「なにを今さら言っているんだ。自分で志願したんだろ。族長に出立の挨拶をしたからには、もう取りやめは無しだ」  ギリスは玉座の前でも渋々と挨拶をし、ジェレフの肝を冷えさせた。  仮にも大勢の中から志願を聞き入れられて、族長から王都を留守にする許可をもらっているというのに、さっさと行って早く帰りたいですとは、とんでもない挨拶だった。  癇質の族長の機嫌をそこねるのではと、ジェレフは気を揉んだが、リューズ・スィノニムはギリスに苦笑して、では走って行ってこいと言った。家臣への言葉には修辞をこらす族長にしては、やけに素朴な物言いだった。族長でさえ、ギリスには込み入った話をする気になれないということなのか。  その返答にダロワージは笑ったが、ギリスは大真面目に頷いていた。 「俺、あいつも一緒に行くんだと思って志願したんだもん」  恨めしげに、ギリスが言った。 「あいつって誰のことだ」 「人食いスィグルだよ」  断言するギリスを、ジェレフは僅かの間、呆気にとられて見下ろした。 「その呼び方はよせ。皆が知っている話じゃない。どうしてスィグルが来ると思ったんだ」 「だってあいつの友達のところに行くんだろ。どうして本人が来ないなんて思うんだ」 「王族はタンジールを出られないんだ」  誰でも知っている当たり前の話を、ジェレフはギリスに教えてやった。王族は特別な理由がなければ、王宮を出ることさえ奨励されていなかった。タンジール市内であればまだしも、お忍びで遊び回る者もいるようだが、尖塔(ミナレット)の辺りまで行くとなると、王宮からこんな遠くまで来てしまったと思うのが王族の感情だろう。 「志願したら選ばれたしって話したら、へえって言うから、あいつまた照れてんのかと思ってた」  ぶつぶつと拗ねたように、ギリスは話している。  ジェレフは煙管を吸いたくなった。 「お前、なんの話をしているんだ」 「俺たちどれくらい向こうに行ってるんだろう」 「行って戻って、滞在期間も考えれば、早くて三月ぐらいだろう」  ギリスが急いているのを知っていたので、ジェレフは最短と思われる期間を教えたが、実際にはもっとかかるのではないかと思われた。 「三月! 三月って何時間だよ」  計算しているらしいギリスの横顔を眺めながら、ジェレフは自分の口元を覆った。ギリスの奇行は今に始まったことではなく、彼が話していることの意味がわからなくても、気にかける者はあまりいなかった。  ジェレフは、石の痛みを全く感じないというギリスが、案外ひどく石に冒されているのではないかと、時折ふと心配になった。あまりにも常軌を逸しているように見えることが多かったからだ。  しかし、透視者に診察させてみても、ギリスの石はさほど大きくなっていないのだった。痛みがないだけでも幸運だが、ギリスはどうやら、無駄に魔法を使う割には石の成長が遅いほうらしかった。  そういえば近頃は、暇に任せてあちこち凍らせたりしなくなっている。ギリスもギリスなりに自重することを憶えたのだと思っていた。 「ジェレフ、タンジールを出るときには、弟(ジョット)とは絶対に別れないといけないもんなのか」 「……いや、別にそういう決まりはないが」 「じゃあ俺はやだな。志願なんかしなきゃよかったよ。あいつもせめて、行かないでとか何とか言えないのか。そしたらいくら俺だって気がついたのに!」  ギリスが嘆くのを、ジェレフは初めて見た。血みどろの戦場で、自分の腕が吹っ飛んでも、ぽかんとしているような奴なのに。 「人食いスィグルね……」  苦笑して、ジェレフは帯から煙管を取りだそうとした。痛みはなかったが、なにかに逃避したい気分がした。それもどうかと躊躇って、何も詰めない銀の煙管を弄んでいると、王宮のほうから蹄の音がした。  朝儀に列席したままの格好らしい、正装の出で立ちで、スィグルが黒い馬にまたがっていた。 「スィグル」  嬉しげに名を呼んで、ギリスは子供のような、底抜けに明るい満面の笑みを浮かべた。  それに眉をひそめたらしい顔で、スィグルはこちらに馬首を向け、鞍から降りもせずに、馬上から見下ろしてきた。 「今日の朝儀はやたら長かった。もういないかと思ったけど、いちおう見送りに来たよ」 「なんでお前は行かないの」  先程まで苦悩していた話を、ギリスはいきなりぶつけている。 「どうして僕が行くんだよ」 「行かないならどうしてジェレフの南行の話なんか俺にするんだよ。二千百六十時間もあるんだぞ」 「三月で戻れるつもりなのかい。そんなわけないだろ。ついでの仕事が山ほどあるはずだ」  泣き言を冷たく蹴られて、ギリスは鉄槌で頭を殴られたような顔をした。もしも痛いという感覚がギリスにもあるとしたら、間違いなく、それは痛いという顔だった。 「ジェレフ、イルスをよろしく。大事な友達なんだ」  馬上からだが、スィグルが珍しく殊勝に頭を下げたので、ジェレフは答礼しておいた。スィグルがねだるのではなく、自分にものを頼むのは、これが初めてではないかと思えた。 「そいつと俺とどっちが大事なんだ」  銀の鐙(あぶみ)にかけられたスィグルの絹の靴に、ギリスは縋って尋ねている。 「イルスだよ」  顎をあげて、スィグルはきっぱりと答えた。 「俺そんな奴に会いたくないよ……」 「会えるわけないだろ。お前みたいなのが顔を出したら、イルスも腰抜かすよ」 「ひどすぎる」  横で聞いていても、それは確かにひどすぎた。ギリスのように鈍い者でやっと、その蔑むような視線の痛みに耐えられるのではないか。ジェレフは苦笑しながら眺め、内心、震え上がった。 「俺、行きたくない。お前とタンジールにいたい」 「ギリスもこの際、外交を学んだほうがいいよ。今のままじゃあまりにも役立たずだから」  突き放すように諭してから、スィグルは彼の足に縋り付いているギリスの頭に屈み、そのてっぺんあたりに口付けをした。 「走って帰っておいで」  スィグルが囁く声は、玉座から聞こえる声に似て、糖蜜のように甘かった。さすがはダロワージの両翼に座る者というべきか。ジェレフは感心して、顔をあげたスィグルと見つめ合った。  こちらに気付くと、金色の眼で、スィグルはどこか気まずそうに苦笑した。 「あと二千百五十九回は……」 「それは帰ってからな」  追いすがろうとするギリスを、邪険に押し返して、スィグルは手綱を繰った。彼の愛馬は忠実に、馬首を王宮の方角へと向けた。 「僕は帰るから。せいぜい気をつけて行ってきて」  そっけなく言い、スィグルは馬に鞭をくれた。  全速力で遠ざかっていく姿を、ギリスは見ているこっちまで情けなくなるような哀れな背中をして見送っている。 「ジェレフ……」  掠れた声で、ギリスは振り返りもせずに呆然と問いかけてきた。 「あいつ照れてるんだよな」  同意を求める声に、答えてやりたかったが、ジェレフはとっさに煙管をくわえて、笑いを噛み殺した。 「お前は、冷たいのが好きなんだろ。幸せだな、ヴァン・ギリス」  皮肉をこめて、ジェレフはギリスを励ました。  その言葉にゆっくりと振り向き、ギリスはため息をついた。 「うん。俺、すごく幸せ」  ごちそうさま、と答え、ジェレフはギリスの尻を叩いて出立を急かした。  海辺までの道のりは遠く、走っていっても何日もかかりそうだった。 《終わっていいですか》 ----------------------- 甘味がたりないって言われたので書きました。 がんばったんだよ、みんな……。 これでも血反吐を吐いてがんばったんだ。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(1) -----------------------------------------------------------------------  ここは狭間の時空。物語と物語の間にある場所。  今日も神の視点から、いろいろ語っていくよ。  彼の名はエル・ジェレフ。族長の命令でタンジールを出発して、同盟国、海エルフ族の首都サウザスまで旅をすることになった。イルスの竜の涙を初めて診察しに行くんだよ。  南行の随員は、ジェレフの他に一般の治癒者が数人と、透視者がふたり。頭の中にある石を透視して、どれくらいのサイズがどの位置にあるかを確かめる仕事をしてもらう。  その他、竜の涙からの志願者も連れていく。彼等は全くの遊びの旅。族長が、平和になって暇にしている連中に、慰安旅行をさせている。税金を使って行くんだから、もちろん何らかの役目は与えられるけど、戦時には兵器として使われていた彼等の労苦をねぎらうのが族長の目的だ。  さすがは名君、だろ。 「だから、ぶうぶう言うのはやめて、心から深く感謝して行け、エル・ギリス」  乗船を待つ港で、未だにタンジールを振り返るギリスに、ジェレフは説教をした。幾夜を継いで砂漠を横断し、大陸西端に到達した。タンジールはすでに、はるか東だった。 「暑くてたまんない。魔法で氷作りたい……」  泣き言めいたことを呟き、ギリスは初めて見る海を無視して、港の背後にある砂漠を見つめている。  冷暖房完備の王宮に慣れすぎて、部族領の本来の風土が身に堪えるらしい。 「お前が外に出るのは、ヤンファールでの戦闘以来か」  従軍する以外の理由でタンジールを出たことがないのは、竜の涙であれば普通のことだった。しかし暑いのには、そろそろ慣れねばならない。これから行く先は、もっと熱帯なのだから。  ジェレフがそう言うと、ギリスは心底うんざりという顔をした。 「船旅に移ったら、お前にも仕事をやるよ」  ジェレフは二冊の本をギリスに渡した。ひとつは古いもので、ひとつは新しく、まだ中身が書かれていない帳面だ。 「今回の旅の記録をつけろ。将来、同じ経路で旅をする後任者が参考にできるように」 「こっちは何」  古い方の頁をめくって、ギリスは興味薄げに尋ねてくる。 「資料室にあったから借りてきた。昔、エル・イェズラムが南行したときの直筆の記録だよ」  驚いた顔で、ギリスは紙面を埋める文字を見た。 「イェズって字が書けたのか。いつも他人に代筆させるから、書けないのかと思った」 「そんなわけないだろ。普通に考えてありえないだろう」  ジェレフはギリスの発想にうなだれた。宮廷で養育される竜の涙の中に文盲の者がいるはずがない。エル・イェズラムは隻眼になってから、視力に難があったこともあるが、とにかく何もかもが億劫な人になったのだ。 「イェズはいったい何のために南へ行ったんだ」 「族長が即位直後に海エルフ族の旧都バルハイに行ったんだ。援軍を求めに。自分の仕える王朝の歴史を知らないのかお前は」  そのころ窮地に陥っていた戦線を持ち直させるため、族長リューズ・スィノニムは海エルフ領へ行き、援軍をつれて戻った。その第一報をタンジールに知らせたのが、族長が飼っている銀の矢(シェラジール)という名の鷹の祖だし、このときの共同戦線で共に戦ったのが、のちに即位することになった海エルフ族の現族長であるヘンリック・ウェルン・マルドゥークだ。援軍の借りを返すため、リューズはヘンリックの即位を支援した。  エル・イェズラムは族長の警護のために同行し、一部始終を知っている。  言行録があるはずだから持って行ってやれと言ったのは、他ならぬ族長リューズだった。ギリスがイェズラムの秘蔵っ子だったことは族長にも知られているので、養い親を失って消沈しているだろうギリスを慰めようと、特別の計らいとして、気晴らしになればと南行への志願も取り立てたし、今や貴重な資料となった直筆の言行録も気前よく貸し出してくれたのだ。  それがあの渋々の出立で、族長はどう思っただろう。  ほんとうにもう、どの面さげて帰ればいいのか。  ジェレフにはギリスがエル・イェズラムの死を悲しんでいるようには見えなかった。けろっとしていて、出立前にエル・イェズラムから直々に任された遺品の整理も、やっているんだか、いないんだか、遊び歩くほうにかまけて放ったらかしているような気配だ。  つくづく情けない。 「その言行録は死んでも無くすなよ。もらったんじゃないからな、戻ったら返却するんだから。汚したり、書き込んだり、破いたりするなよ。部族の宝だからな」  知っていて当然だとは思ったが、ジェレフは一応説明しておいた。ギリスと付き合うときに、それは常識だろうとか、分かっていると思っていたなんていう言い訳が、失敗したあとで通用することはまずない。何があろうと向こうは知らん顔で、こちらだけが責任を感じることになる。  ほかに何かやりそうな事はないかと考えながら説教したが、ギリスは頁をめくっていて、聞いてもいないようだった。 「昔は陸路だったんだ」 「行きはな。帰りに使った海路を族長が気に入って、航路を開いたんだ。そのお陰で俺たちも、昔よりかなり早くに大陸南端まで行ける」 「あの人、玉座でにこにこしてるだけに見えて、案外いろんな事やってんだなあ」  ぼけたような事を言っているのが、族長のことを評しているのだとしか思えなかったので、ジェレフは呆然となった。 「ギリス、お前、族長が滅亡しかけた部族を救ったことは知っているんだよな」 「ああ、なんかそんな話は聞いたことある」  感激に泣き咽(むせ)べとは言わないが、日頃、玉座にいるのを自分の目で見たり、出立のときに直々に言葉をかけてもらった相手が、いったいどういう人だったか、まったく認識できていないのは、あまりにもひどい。  この旅で経験を積んで、ギリスもちょっとは大人になればいいのだが。 「向こうの族長にも謁見しなきゃならないのに、大丈夫なのかお前は」 「大丈夫だって。心配すんなジェレフ」  ギリスに保証されればされるだけ不安だった。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(2) ----------------------------------------------------------------------- 「ジェレフ。エル・サフナールがゲロ吐いてんだけど」  揺れる通路にふらつきながらやってきて、ギリスが臆面もなくそう言った。  お前には他人の名誉への気遣いってものはないのか。ジェレフはそう思ったが、何も言えなかった。あまりの吐き気で。  船酔いだった。  出航後、数日したころに海が荒れ始め、船室は暴れ馬の背のようになった。  皆、多かれ少なかれ顔面蒼白の体で、平気そうにしているのは、ギリスくらいのものだった。 「ジェレフを呼んできてくれって、泣きつかれたんだけど」  船室の扉にとりつき、よろめく体を支えながら、ギリスはのんびりと言う。  なんとかできるものなら行ってやりたかった。エル・サフナールは女性で、あまり頑健なほうではないからだ。線の細い美人で、苦しんでいると思うと気の毒だ。 「行っても役に立てない。俺には船酔いは治せないから」  そう答えると、ギリスは深く納得した顔をした。 「そうだよな。治せたら自分を真っ先に治すもんな」  頷きながら、ギリスはこちらを眺めている。 「じゃあ、サフナには、ジェレフもゲロ吐いてるから来られないって言っておくし」 「もっとぼかせ」  微かな掠れ声で、ジェレフは頼んだ。頷き返しながら、ギリスは懐から帳面とペンを取り出した。仕事として与えた言行録だった。 「全員船酔い、と……」  揺れの中で器用に書き付けて、ギリスは去っていった。  まじめに書いているらしかった。嬉しいような、悲しいような気が、ジェレフはした。  いくつかの港を経由して、ボルゲン港に入港した。  さんざん揉まれた割に、あっけなく晴れ渡った青空のもと、船は船着き場に係留された。 「下船する際には、石のある者は頭布(ターバン)を着用して隠すように」  なんとか元気を取り戻した面々を集めて、ジェレフは注意事項を説明した。  これまで下船を避けさせていたが、あの船酔いの後では、皆が一時でもいいから船から出たいと思っているのが感じられたし、ボルゲンには族長に命じられた用件があった。自分だけ下船するのでは仲間に悪い。 「なんで隠すの」  随員のなかで最年少のギリスを、皆が見た。 「海エルフたちは竜の涙を不吉なものとして恐れているのよ」  優しげに響く美声で、エル・サフナールが説明してやっている。彼女の瞳は灰色がかった緑で、右側頭にだけ現れた竜の涙は、青い色をしていた。彼女も治癒者で、ジェレフとはほぼ同世代だった。 「だからって隠す必要なんかあるの。そんなの不名誉だろ」  珍しくまともなことをギリスが答えたが、この際迷惑だった。 「いやなら船から出なくていいぞ」  ジェレフが冷たく言うと、ギリスはげっという顔をした。船酔いには苦しまなかったが、退屈に苛まれているらしい。  優しいエル・サフナールに説得されて、ギリスは渋々納得したようだった。 「ジェレフ、どこ行くの」  サフナールに頭布(ターバン)を巻いてもらいながら、ギリスが尋ねてきた。  ジェレフは随行の侍従たちが運んできた鳥籠を受け取った。中には鷹通信(タヒル)に用いる鷹が入っている。 「イシュテムという呉服商にこの鷹を届けに行く」 「それは。シェラジール85号」 「良く分かるな……」  鷹の名前を当てたギリスを、ジェレフは誉めた。  族長の鷹はとにかくシェラジールだった。その名をよほど気に入っているのか、名前を考えるのが嫌なのか、それともどの鷹がどの名前なのかを憶えるのが面倒なのか、族長は初代シェラジールから発した全ての鷹をシェラジールと名付けていた。仕方がないので、個々のシェラジールには通し番号がつけられている。 「スィグルが絵に描いていたよ。こいつは族長のお気に入りだろ。鷹通信(タヒル)の駅に置いてきちゃうのか」  随行してきた鷹と仲良くなっていたのか、ギリスは惜しそうに85号の翼に触れている。 「イシュテムが元々のシェラジールの持ち主らしい。鷹の血筋を持ち主に戻して、褒美もとらせるとかで。こいつは繁殖用にするようだ」 「そうか……がんばれよ85号。体に気をつけて、精々やりまくれ」 「そこまで直接的に励ますな」  エル・サフナールが恥じらったふうだったので、ジェレフは慌ててギリスを叱った。 「なんで?」  理由はいろいろあるが、とにかく女性の前でそこまで言うな。そう言いたかったが、竜の涙の女戦士は、男性として遇するのが礼儀だったので、ジェレフの話は遠回しになった。  しばらく諭していると、ギリスはやっと納得した顔をした。 「ああ、分かった。ジェレフはサフナに気があるわけ?」  ギリスの結論に、唖然としていると、悪童はなおも言った。 「ゲロ仲間だから?」  サフナが衝撃を受けている。  ギリスをこのまま海に捨てていっても罪にならない方法はないか、ジェレフは考えてみた。しかしギリスは貴重な部族の戦力だった。  でも本人が迂闊にも船に乗り遅れるのに誰も気付かないくらいなら罪にならないのじゃないか。本気でそう検討したい気分だった。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(3) -----------------------------------------------------------------------  絶対に同行させるものかと思っていたが、ギリスに異国の街中をひとりで行動させる恐ろしさを考え、ジェレフは彼をボルゲン市内にあるイシュテムの屋敷に伴うことにした。  呉服商イシュテムの主は、上品な初老の男だった。  彼は丁重にジェレフたちを出迎え、初対面の挨拶のあとに、エル・イェズラムの死を追悼する言葉を続けた。 「お会いになったことが?」  ジェレフが尋ねると、イシュテムは頷いた。 「ございます。短期間でしたが、族長閣下はじめ、皆様が当家に滞在されましたので」  ギリスがなにか発言しそうだったので、ジェレフは黙らせるため彼の足を踏んだ。 「シェラジールの子孫です」  ギリスに持たせていた鷹の鳥籠を、ジェレフは主に示した。 「イシュテム殿と鷹の忠節を讃え、閣下から褒美を賜ります」 「茘枝(レイシ)ですか」  当てずっぽうのようだったが、イシュテムは族長リューズが持たせた褒美の一部を言い当てたので、ジェレフは驚いた。 「そうです……なぜ分かったのですか」 「滞在中に、リューズ様が当家にあった茘枝(レイシ)を全て召し上がり、もっと出せとおっしゃるので、もうないと申し上げたら、大変すまないとおっしゃいまして」  ジェレフはあぜんとしてそれを聞いた。 「必ず返すと約束なさいましたので」  ふっふっふっと思い出し笑いをしながら、イシュテムは話している。  ジェレフの中で族長のイメージが崩れはじめた。 「ずいぶん時が流れました」  ジェレフは言葉もなく頷いた。目の前の商人が知っている族長は、即位したての十八歳で、ギリスより少々成長した程度だ。その時、随行してきたエル・イェズラムは二十代の初めだったはずだから、ちょうど自分がギリスを連れてやってきたのと似たようなものだったのだろう。  イシュテムは籠の中の鷹に目をやった。 「それで、この鷹めは、族長閣下からどんな名を頂戴したのでしょうか」 「シェラジール85号」  すかさず答えたエル・ギリスのほうを、イシュテムの主は、彼が冗談だというのを待つように、しばらくじっと見つめた。しかしギリスは言葉を継がなかった。それが本当にこの鷹の名前なのだから、ジェレフもなにも言えなかった。 「族長閣下はお変わりないようで安心しました」  商人は遠慮なく鷹と褒美を拝領した。  土産に服をもっていけという主に、仲間に持って帰ってやる衣装を選ばせてもらった。 「ジェレフ、エル・サフナールに女物の服を選んでやれよ。絶対喜ぶから」 「失礼だろ、そんなの」  頭痛がする気がして、ジェレフは顔をしかめた。餓鬼のくせに英雄譚(ダージ)よりダロワージでの戦歴を稼いでいるらしい。 「サフナはジェレフが好きなんだって。なんでジェレフはもてるんだろう。みんなお前が好きだよな」  恨みのこもった目で見られて、ジェレフはうろたえた。 「サフナが、ジェレフには弟(ジョット)がいるのかってこっそり聞くから、俺がそうだって言ってやった」 「お前いったいどういう了見だ」  あまりの話にジェレフは思わず叫んでいた。 「禁欲しろジェレフ……俺が三ヶ月も我慢すんだから。お前だけいい思いするなんて絶対ゆるせない」 「ギリス、お前に恨まれる覚えはないぞ」 「本当にそうか?」  ギリスの目が怖かった。 「さ。早く選んで皆のところに戻ろうか。明日にはもう出港だからな」  とりあえず、ジェレフは逃げた。覚えがあるとは思いたくなかった。ただでさえそれは剣呑だったが、その上さらにこの滅茶苦茶な悪童と恋のさや当てをするなんて、想像するだにいやだ。  そうだったのか、エル・サフナール、とジェレフは思った。それで体力もないのに南行を志願したのか。そんなことタンジールにいる時に言ってくれればいいのに。  なんだか、大変なことになってきた。無事に帰りたい。無事に帰れるといいのだが。無事に帰れますように。  信心深くもないはずだが、ジェレフは思わず祈っていた。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(4) -----------------------------------------------------------------------  イシュテムの館からタンジールに向けて、サウザス到着目前の報を持たせた鷹通信(タヒル)を放った。  ここまでは、船が難破でもしないかぎりは無事で当然だった。航路沿岸は部族領か、同盟国であるし、どんなとんでもない奴でも船に閉じこめられている限り、できる悪さも限度がある。  しかしサウザス入港後のことには頭が痛い。  竜の涙たちは教養として、公用語も外交儀礼も仕込まれている建前だから、本来なら心配することはないのだが、ギリスは本当に大丈夫だろうか。 「ギリス、公用語は話せるんだろうな」  当然だよなという含みをたっぷり籠めて、頭布(ターバン)と格闘しているギリスに、ジェレフは尋ねた。  ギリスの嘘に傷ついたらしいエル・サフナールは、もう手伝ってくれなくなったらしい。当然の報いだ。 「話せると思うけど、あんまり自信ないなあ。聞く方はなんとかなるけど」  いたって正直にギリスは答えた。なぜちゃんと学んでこなかったんだと言いかけて、ジェレフは気付いた。話せないということは、失言もしないということだ。  そんな素晴らしいことがあるだろうか。 「まあいいさ。謁見の時には、俺が代表で挨拶をするし、お前は黙っていればいいんだからな」  とりあえず頭布(ターバン)を仕上げて、ギリスは鏡を覗き、むっとした顔をした。格好に構わないようでいて、見栄えが悪いことは理解できるらしい。ほどいて巻いてを永遠に繰り返されそうだったので、あきらめてジェレフはギリスの頭布(ターバン)を巻いてやった。 「謁見て?」 「族長への謁見だ」 「ああ、左利きのヘンリックだ」  納得したように呟くギリスに、ジェレフはいやな予感がした。 「その名は渾名だから、公用語では口にするなよ。特に正式な場ではな」 「例のあいつには、いつ会うんだ、ジェレフ」  ギリスの言う例のあいつとは、族長ヘンリック・ウェルンの三男の、イルス・フォルデスのことだ。スィグルの人質時代の友人で、彼の竜の涙の診察が、今回の南行の主目的のひとつだった。  恩を着せるように、と、うちの族長は念押ししていた。形のうえではスィグルの頼みを受け入れたことになっているが、三男の難病は族長ヘンリックにとっては個人的な秘密の部類で、そこに貸しを作ることには、族長リューズにとって政治的な旨味があったようだ。  海エルフたちは竜の涙を呪いの一種と考え忌避しており、呪われた息子を持っていることは、族長ヘンリックにとっては醜聞なのだ。  そこまで思いめぐらせてから、ジェレフははっとした。 「ギリス、例のあいつが竜の涙だということは、秘密なんだからな。船を降りたら、いっさい口にするな。公用語でなくてもだぞ。誰が聞いているか分からない」 「なにが秘密だよ。肝の小さい野郎だよ。隠すようなことじゃないだろ」 「この国では隠すようなことなんだ。おとなしくしてろ」  ギリスに理解しろというほうが無理かもしれなかった。  黒エルフ族に生まれついた幸運をジェレフは改めて感じた。そのお陰で、誰に忌み嫌われることもなく、王族にも劣らず敬われ、英雄として晴れがましく生きていくことができる。その一方で、本当に王族に生まれながら、父親の弱みとして、隠れて生きている者もいるのに。  どんな子なんだろうな、と、ジェレフは思った。あの気むずかしいスィグルが、大切な友達だというのだから、それ相応の器なのだろうが。 「頭、暑っいわ……脳みそ茹だりそう。このまま一日ずっとなのか。やってられない。呪われてると思われてもいいから、頭布(ターバン)はやめたい」  ギリスが愚痴った。説教したいところだが、ジェレフも同感だった。  じっとりと湿気を含んだ暑い空気が、船室にも侵入していた。ギリスでなくても王宮が懐かしくなろうというものだ。  でもまあ、せっかくの異国の旅だ。野蛮さを楽しむくらいの度胸がないと。 「行こうか。英雄の顔をしろギリス」  返事とも思えない声で、ギリスがあくびをしながら答えた。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(5) -----------------------------------------------------------------------  内心、無意識に玉座の間(ダロワージ)のような場を想像していた面々は、篝火の焚かれた半屋外の宴席に、寄る辺なく集まって立ちつくす羽目になった。  族長ヘンリックからの遣いによれば、ちょうど時が折り合うので、使節団を歓迎する夜会の席で謁見するとの連絡だった。  案内の者に連れられてやってきた王宮の広間は、海を望む高台の庭に向かって開けており、夜風の吹き抜ける中、だだっ広くあいた何も置かれていない床を取り囲むようにして、寝そべって物を食うらしい長椅子と、料理を盛りつけた低い食卓が置かれている。  海辺の種族の貴人らしい人々は、その長椅子で会話しながら食事をしている者もいれば、そぞろ歩いて社交に熱中している者もいる。とにかく、それぞれの行動にまとまりがなかった。  玉座の間に集い、典礼を取り仕切る侍従の号令で皆がいっせいに同じことをしているタンジールの宮廷と引き比べると、ここに集まる意味があるのかと思えてくる。  それに何より、族長がどこにいるのか分からなかった。  玉座がないのだ。玉座がない。  その事実にジェレフはなかなかついていけなかった。  玉座がない。  あらかじめ知っていた事実だが、目の当たりにすると、違和感は絶大だった。  一部族の族長ともあろう者が、宴席にやってきた他の者たちと同じように、この広間のどこかを、うろうろ移動しているというのだ。  朝儀や晩餐の前後であれば、族長リューズも広間を渡って出入りするときに、廷臣たちと親しく口をきくことはあった。でも、それとこれとは根本的に性質が違う。 「ああ、あれかな。夜警隊(メレドン)の礼服が見えますか、あの一団の中に族長がいるはずです」  指さした腕を振り回して、案内にやってきた海エルフの将校は、あけすけに教えた。  その姿を見て、ジェレフをはじめとする黒エルフの一団はぎょっと肝を冷やした。部族の習慣では、相手を指さすのは侮辱する意味を持っていたからだ。  しかし、そんなことを気にする様子もなく、案内係はずかずかと広間を横切って、指さした一団のいるほうへとジェレフたちを引き連れていった。 「族長。族長!」  移動している相手を引き留めるためだろうが、大声で呼びかける案内係に、街で会った友達を引き留めるような気安さがあり、ジェレフは顎が落ちそうになった。  しかし、とにかく、その呼び止める声に、族長を警護しているらしい一団は、こちらが近づくのを待つふうに足を止めた。 「なんだかな……」  ぼやくようにギリスが呟いた。ギリスですら呆れているらしかった。 「イェズラムの言行録には、粗野にして野蛮て書いてあったよ」 「そんなこと死んでも口にするなよ、どうやら謁見らしいから」  情けない気分で、ジェレフはギリスに注意を与えた。しかしエル・イェズラムの批評に賛成する気持ちしか湧かなかった。 「目のやり場に困るよなジェレフ」  ため息をつき、ジェレフは族長の一団を見つめたまま、小さく頷いた。  夜会の広間には、貴人の妻らしい女性たちが、うようよいた。  タンジール宮廷では、男女は同席しないものだったし、公式な席に女が現れることはまずない。竜の涙の女戦士を除いて。  サウザスでは違う。その話も予備知識として知ってはいたが、それがまさか胸のふくらみも露わな、大きく襟のあいた夜会服姿でとは、どこにも書いていなかった。たぶん今までの誰もが、気恥ずかしくて書き漏らしたのだろう。エル・イェズラムでさえそうだったのだ。 「乳しか見えない。乳だらけ」  ギリスが的確なことを言ったが、エル・サフナールが必死の気配のする咳払いをしたので、ジェレフはどうしていいか分からなかった。 「ギリス、わかったから、もう一言も喋るな。頼むから。謁見に集中させてくれ」  こちらに向かって歩いてくる一団の中程に、族長ヘンリックはいた。族長冠をかぶっているから間違いなかった。  目が合うより先に、ジェレフたちは腰を折って深々と一礼した。  跪拝叩頭しなくていいのかと思うが、使者は相手先の宮廷儀礼に倣うのがしきたりだ。このへんが妥協点だった。  顔をあげたジェレフを、族長ヘンリックは微かに首をかしげた姿勢から、微笑して見返した。なにかが面白くて笑ったのだと思えた。自分より十歳ほど年上の海エルフの男は、族長らしい貫禄があるというより、威容を発していた。王宮にいるより、戦陣にいる種類の顔だ。  それを言うなら、族長を警護する者たちも、この広間にいる他の貴人たちの多くも、皆そうだった。まるで戦いの前のような気配が、どことなく張りつめている。 「ようこそ」  端的な口調で、族長ヘンリックは直々に言葉をかけてきた。彼を守っている制服の男達は、まるで猟犬のような忠実さで、族長のごく近くに立ち、微笑みもせずにじっとこちらを見つめている。  凝視するのは黒エルフだけの習慣ではなかったか。じっと見るなと外交儀礼の手引き書には書かれていた。それに反して、自分の目をじっと見つめてくる海エルフたちの青い瞳を、ジェレフはただ見つめ返した。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(6) -----------------------------------------------------------------------  慣れない異国で不自由だろうが、滞在を楽しんでいってくれと、族長ヘンリックは言った。こちらは畏れ入って一礼した。型どおりの挨拶だった。  例の三男の件は、秘密であるわけだから、今ここで話題にするような事ではなかった。お互いに了承済みであろうし、今はただ、族長にこちらの顔を見せておけば礼儀に叶う。  ジェレフはそう判断して、もう引き下がろうかと思った。沈黙がちな彼らを前にしていると、どうも会話の糸口がつかめない気がしたからだ。  また一礼して退がろうと決めた瞬間、族長ヘンリックが広間の一角を指さして示した。ジェレフも他の者も、皆そちらを見た。  そぞろ歩く貴人たちのいる、なにもない開けた場所に、まだ年若いような三人連れが立っていた。ひとりは女性で、金髪だった。いくらか浅黒い肌をしていたが、どう見ても森エルフのようで、どう見ても妊娠している大きな腹を抱えていた。  彼女に寄り添って立っている若い男は、すらりとした体格をしており、遠目に見ても、族長によく似ていた。目の前にいるこの男を、そのまま若くしたようだ。  彼は向き合った少年と笑いながら話していた。頭ひとつぶん背の低い相手の髪をぐしゃぐしゃと乱して厭がられ、彼は笑っていた。 「あれがイルスだ」  族長はそう言ったが、どちらのことかジェレフには分からなかった。それを察したのか、ヘンリックはややあってから付け加えた。 「女(ウエラ)を連れていない方だ」  それは妻を意味する言葉だとジェレフは解釈していた。あの妊娠している娘がそうなのだろう。ヘンリックに似ているほうのが、あの娘の相手だろうから、背の低いほうのがイルス・フォルデスに違いなかった。 「優れた治癒者だそうだな。リューズが手紙に書いていた。我が王朝の奇蹟」  族長リューズの言葉を引用しているのであろう、族長ヘンリックが口にしたそのほめ言葉に、ジェレフは恐縮した。族長は同盟者に恩を売るためにそう書いたのだろうが、分かっていても気恥ずかしかった。同じ治癒者であるエル・サフナールが、微笑みを自分に向けるのが感じられた。 「妻を診てやってくれ。末の息子を産んでから体調が優れない。もう孕めないと本人は思い詰めている」  大して深刻そうでもなく、ヘンリックはジェレフに頼んだ。世間話のような気がした。 「族長。それが今期不発の言い訳で?」  彼の護衛のひとりが、軽い調子でそう話しかけた。ヘンリックが声もなく笑い、その他の者たちは声を上げて笑った。彼らには面白い冗談らしかった。 「それは俺への挑戦か? 使者殿たちには、ちょうどいい余興だ。中央広間(コランドル)で俺と踊るか、カダル」 「まさか」  笑って言うヘンリックに男はやはり笑って答え、両手を挙げて空手を示した。 「そういうのは殿下がたに任せます」  男が顎で示したほうを、ジェレフは見やった。なにもない、がらんとした広間の向こう岸で、ヘンリックに似た若者は、彼の妻らしい娘を抱き寄せて口付けをしていた。その濃厚なことに、ジェレフはたじろいだ。  その横にいるイルス・フォルデスが、なぜか抜刀している。その剣の腹で、接吻する男の尻を叩いて、彼はなにか罵ったようだった。笑って妻を手放し、若者はイルスに笑い返すと、おもむろに腰に帯びていた剣を抜いた。  それはどう見ても真剣だった。親しげになにか言い交わしながら、がらんとした広間の中央に歩いていく二人を、ジェレフは不吉な気分で見守った。 「もうおひと方は、どなたですか」  尋ねなくても、ジェレフには見当がついていた。彼らはふたりとも額冠(ティアラ)をしていたからだ。 「ジン・クラヴィス。イルスの兄だ」  どことなく違和感のある族長の答えに、ジェレフはなぜだろうと考えた。どうしてこの人は、あれは自分の次男だと答えないのだろう。 「ご結婚されたのですか」  そうなら祝辞を述べなければならないと思い、ジェレフは尋ねた。自分たちの旅の間に、情勢が動いたのかもしれない。 「いいや。あれは女(ウエラ)だ。妻ではない」  どこか憮然として答えるヘンリックの背後に、長身で隻眼の男が控えており、たしなめるように言った。 「いいじゃないですか。その女(ウエラ)が孕んだおかげで、殿下もおとなしくなって、こうして海都に戻れたんだから。今期はもう終わりですよ」  ヘンリックはなにも答えなかった。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(7) -----------------------------------------------------------------------  広間の中央から、剣を打ち合わせる音が響いた。  若い兄弟は下段に構えた剣を触れあわせていた。それは挨拶のようだった。  その次の瞬間、弟のほうの攻撃から戦いは始まった。軽く首を巡らせて避け、ジン・クラヴィスは彼の握る長剣を舞わせて、弟の喉もとを薙いだ。殺意があるとしか思えない切っ先の速さだった。  しかしイルスは微笑を浮かべたまま、それを紙一重で避けた。  片方が斬りつけ、もう片方が鮮やかに避けた。その応酬は少しずつ、しかし確実に速さを増していた。彼らは笑っていたが、殺し合っているように見えた。 「止めなくていいのですか」  思わずジェレフは誰にともなく尋ねた。 「あれは手合わせ(デュエル)だから大丈夫です」  案内役の海エルフが、にこやかにそう教えた。  一瞬の優勢をとり、イルスがジンに斬り込んでいった。周囲から見ていた者や、族長の警護をする制服の者たちが、それを囃すように、ヴェスタと叫んだ。 「なんと言っているのですか」 「殺せ(ヴェスタ)と。……ただの伝統的なかけ声ですから」  安心しろというように、案内役はこちらに頷いてみせている。彼らは族長の年若い息子たちが斬り合うのを、心底楽しい娯楽と受け取っているようだった。  熱心に打ち込みすぎたイルスをいなして、ジン・クラヴィスが彼の背後に身を翻した。剣を振り上げる兄に、弟は向き直ろうとした。しかし間に合わず、イルスは剣の腹で強かに尻を叩かれ、足を払われて、床に転倒した。  ヴェスタ、と広間が笑って囃し立てた。  ジンが弟の帯を掴んで立たせ、腹を刺し貫くまねをした。ふたりは笑っていたし、それを見ている、皆も笑っていた。  笑っていないのは自分たち黒エルフと、どこか遠い目をして息子達を眺めている族長ヘンリックだけだった。 「手合わせ(デュエル)はこの部族では社交なのだ。皆の見ている前で腕を見せるのが。本気でやりあうような相手には申し入れない。殺す気は全くないという意味合いで申し込むものだ。これが夜会の儀礼だから言うが、使者殿。俺と一戦、手合わせをいかがか」  こちらを見ずに、族長ヘンリックは億劫そうに誘った。その気怠い調子が、自分に向けられていることは確かだったが、答える必要があるのか、ジェレフには謎だった。 「せっかくですが辞退を。魔法戦士は演武は行いません」 「知っている。お前たちは人の形をした化け物だ。剣一本で戦って勝てる相手ではない」  苦笑とともに、族長ヘンリックはそう答え、ジェレフの辞退を快く受け入れた。 「昔、お前たちの兄貴分をからかって、危うく焼き殺されるところだった。剣ならともかく、魔法を使えば、お前達にとって、俺など一捻りなのだろう」  こちらの頭布(ターバン)をした者をひとりずつ眺めて、ヘンリックは言った。彼はエル・イェズラムのことを話しているのだと、皆わかっていた。ギリスが物言いたげで、それと向き合った族長ヘンリックは、少し面白そうに微笑を取り戻した。 「そんな力を持っていながら、お前達はよくも大人しく、あいつに仕えているものだ。湾岸では考えられないことだ。あの顔がそんなに好きか」  不思議そうに、ヘンリックは尋ねていた。あの顔というのが、族長リューズのことを言っているのは確かだった。ジェレフは返答に困った。顔が好きだから仕えているわけではない。でも、なぜ仕えているのか、改めて考えると返答に窮する。  たぶん族長が英雄譚(ダージ)を与えてくれるからだろうが、そのあたりの心理をこの場で手短に説明するのはひどく難しかった。 「族長」  隻眼の男が、ヘンリックの注意を引くため小声で呼びかけた。  彼の示すほうへ、ヘンリックは目を向けた。  手合わせの戦いを終えた兄弟たちは、まだ広間の中程に立っていたが、抜き身の剣を持ったままのジン・クラヴィスは、どこか遠くを見やるような後ろ姿をしていた。  その視線は広間の向こう側に向けられており、そこには豪華に着飾った女性が、どことなく青白い顔色で長椅子に腰掛けており、彼女の子らしい、年の離れた三人の少年たちが傍らにいた。  末の子らしいひとりはまだ子供で、母親のそばにくっつくように立っており、その隣にはイルスと同じくらいの背格好の、明るい雰囲気のする少年がいた。ジンが見ているのは、母親と向き合って立っている、ずいぶん痩せた気配のする若者だった。  じっと食い入るように、ジンはその弱ったふうな背中を見つめている。 「止めろ、レスター」  命じる声で、ヘンリックは隻眼の男に言った。 「手合わせ(デュエル)は男の嗜みです、族長」  レスターと呼ばれた男は、どこか突っぱねるように答えた。 「母親の前で挑戦させるな。戦う必要はない。ジンが勝つ」 「それを皆の前で確かめて、なにがいけないんだ」  挑むような微笑みを、隻眼の男は浮かべていた。ヘンリックは真顔で首をかしげて、それを見返した。  ヘンリックは何も言わなかったが、彼の目はレスターに、命令が聞こえなかったのか、と言っていた。隻眼の男はそれにも、目で答えた。聞こえていますよ、と。  一呼吸あってから、レスターは腰に帯びていた自分の剣を抜きはなった。  彼は大仰に大股で広間の中央にいる兄弟のところへ歩いていき、ジンの肩を叩いて振り向かせた。 「殿下、このレスターめと手合わせ(デュエル)を一戦」  彼の道化師のような戯けた口調に、ジン・クラヴィスは我に返ったように笑った。  広間を彼らにゆずって、イルスは兄の妻の待つところへ引き上げていった。大きな腹を抱えた彼女はどこか所在なげに立っていた。イルスはそれを励ますように笑いかけ、戦いはじめた兄とレスターを見ている。 「使者殿、出し惜しみして無粋だが、まだ早い。兄弟殺しが見たければ、また四年後に来られるといい。そちらの宮廷とは違って、うちの喧嘩は皆に公開されているのだ。まずは俺の次男が、異腹の兄を平らげるだろう。この中央広間(コランドル)で」  それを確信しているが、嘆きはしない口調で、ヘンリックが語った。 「仕方がない。王族の定めだから」  突然ギリスがそう言ったので、ジェレフは心底ぎょっとした。口を利くなと言っておいたのに。  族長ヘンリックは、小さな子供を見るような視線で、ギリスのほうに顔を向けた。 「お前の言うとおりだ」  微笑んで、ヘンリックはギリスに答えを返した。  笑っていると、族長は彼の次男と驚くほどそっくりだ。  それはその昔、先代の族長と、それを守る者たちを全て斬殺して、族長冠を奪い取った男の顔だった。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(8) ----------------------------------------------------------------------- 「お前はほんとうにな……黙っていろと言われたら、黙っていろ。頼むから」  ジェレフはギリスに頼んだ。もう頼むしかなかった。  あんな微妙な話題で、もし族長ヘンリックの不興を買ったらどうすれば良かったのか。  海辺の王宮では、血なまぐさい継承の話題は禁忌でもなんでもないのかもしれないが、異国人である自分たちが口出しするような話ではない。黙っていれば良かったのだ。 「だってジェレフがびびってたからさ。俺がなんとかしてやろうと思って」 「誰がびびってただって?」  確かにびびってたさと悔やみながら、ジェレフは顔を擦った。  こんな成り行きになってしまって、どうにかならないかと困っていたが、ギリスのあの一言で、族長との会話は終わりだった。  ギリスの言葉に気を削がれたのか、それとも元々あれで終わりだったのか、族長ヘンリックは別れの挨拶をして、さっさと取り巻きを引き連れ、広間のどこか別の場所へと移動していった。 「あの兄貴のほうが次の族長ってこと?」  興味本位なのが丸わかりの口調で、ギリスは尋ねてきた。知ったことかとジェレフは思った。 「どうなってんだっけ。ここの部族の継承って」 「現族長と対戦して勝てば、族長冠を奪える」 「すげえ」  ギリスが驚いている。 「なんでイェズはあいつを殺っちまわなかったんだろう?」 「エル・イェズラムが異民族の族長になれるわけないだろう。治められるのは自分と同種族だけだ」  子供のようなギリスの発想に、脱力しながらジェレフは教えた。 「そうなの?」  あっけらかんと聞き返してくるギリスに、ジェレフは疲れた。 「神聖神殿がそう定めている。一領、一部族、一君主だ。背けば大変なことになる。……というかだな、お前、日に何度も神殿に通っているくせに、なぜ教えを知らないんだ」 「俺は懺悔したいだけなんだもん。いつも罪汚れない身でいたいの」  じゃあ罪を犯すなとジェレフは言いたかった。  居間らしい丁度品のある控えの間で、ジェレフたちは待たされていた。扉を開いて、案内係の海エルフが戻ってきた。 「エル・サフナールが戻られましたよ」  彼が言うように、ちょっと落ち込んだような顔をしたエル・サフナールが部屋に入ってくるところだった。彼女は族長ヘンリックの正妃を診察するために、別行動をとったのだった。  サフナールは今回の使節団の正使ではなく、物見遊山でやってきた志願者のひとりだった。だから仕事をしなければならない謂われはないのだが、女性の診察ということで、どこかしら身構えたジェレフの心情を察して、代役を申し出てくれたのだった。  治癒術は相手の体に触れる必要があり、もしも大量の魔力を投入する場合、ジェレフが相手を抱きしめねばならない事をサフナは知っているからだ。  低い長椅子に居心地悪く腰掛けて待っていた仲間のところへ、エル・サフナールは戻ってきて、ちんまりと椅子の端に腰掛けた。ジェレフの隣だった。  その事実と、人がもうひとり座れるようでいて座れない絶妙な距離のとりかたに、ジェレフはなんだか情けないような気持ちになった。可愛いなと思ったからだ。 「どうでしたか」 「無理でした」  ジェレフが尋ねると、サフナールは小声で答えた。  彼女は案内役の海エルフの耳を憚ってか、部族の言葉で話していた。 「最後のご懐妊のときに胎児の毒にあたられたようで。弱っておいでです。治療はしましたが、一時的にしかご回復されないと思います。次の妊娠は危険なので、族長にはそうお伝えしたほうがいいです」  ほとんど囁くようなサフナの話に耳を傾けながら、ジェレフは顔をしかめた。 「治療したんですか。俺に任せていいんですよ。石のない術医も連れてきているんだし」  竜の涙の魔力を使えば、そのぶん石は成長する。一度や二度であれば僅かなものだが、それでも一歩ずつ死に近づくことは確かだ。 「でも、ずいぶんお嘆きで、お気の毒だったので。私のほうがお役に立ったと思います、その……女の方ですから」  女同士だからという話は、サフナールはできない。それを言われると皆困るからだった。部族のしきたりでは、男女は同席できない。竜の涙でなければ、彼女はこうしてジェレフと対等に口をきくことも出来ないのだ。 「なんでも、この時期に懐妊できないと恥なのだそうです。正妃様もそうですが、族長閣下にとっても。でも本当にいけません。エル・ジェレフから族長閣下にお話ししてください」  彼女の話に、ジェレフは黙って頷いた。  下手に回復させない方が良かったのではないか。世継ぎの男子の頭数に不足があるとして、健康になったように見える妻がそれを望めば、他人から、やめろと言われてやめる男がいるだろうか。  そう思えたが、今さらの話であるし、なによりサフナの気持ちは分かる。今ここで彼女に言っても詮無いことだ。 「それから、正妃様のご長男の診察もしました」  ジェレフはサフナの話に今度は心底ぎょっとした。そんな依頼は聞いていない。 「正妃様に治癒の施術をしましたら、大変感激なさって、ご子息も診てほしいと、お部屋に呼ばれたのです」 「治したのですか」  思わず、まさかという口調で尋ねると、サフナは決まり悪そうな顔をした。  治したのだ。  遠目に見ただけだが、あの長男が病身なのは分かった。どんな病か知らないが、長患いのようだった。そういう患者を治療するのは果てしないことだ。竜の涙の治癒者にとっては、こちらの血を吸わせているようなもので、長く続けるといずれ共倒れになる。 「生まれつき心臓がお悪いようです。隠しておいでです。継承に差し支えるからと」  ひそめていた声を、さらに小さくして、サフナはこちらに身をかがめ、ほとんど耳打ちするように話していた。  まずい話だとジェレフは思った。  魔法で劇的に回復した姿を見て、そのあとまた不調に陥ったとして、正妃母子は再び竜の涙の治癒者を求めはしないだろうか。  だいたいの患者は、最初に治療した治癒者を強く信頼するものであるし、正妃はエル・サフナールを求めるだろう。しかし竜の涙は黒エルフ族に仕える者で、それを留め置くのは無理な話だった。  治癒者が欲しければ、正妃は族長リューズに情けをかけてくれるよう申し入れなければならない。族長は喜んでサフナを貸すにちがいない。同盟者に負債を与えるには好都合だからだ。  そうしたら、エル・サフナールは一生タンジールに戻れなくなるだろう。  こう思うのは自惚れかもしれないが、自分についてきたいばっかりに、南行を志願し、それきり故郷に戻れなくなるとは、この気の弱い人にとってはあまりに悲劇的ではないのか。  ジェレフは切なくなって、エル・サフナールの小作りな顔を見つめた。  早々に身を退いて、あとは自分に任せてくれと、ジェレフはサフナに言おうとした。  その瞬間だった。ギリスがふたりの間に無理矢理割り込んで腰を下ろしてきたのは。  恨みがましい氷の目で、ギリスは鼻が触れそうな間近でジェレフを睨み付け、そして低く脅しの聞いた声で言った。 「ジェレフ。口説いてないで仕事しろ」  ジェレフは一瞬沸いた怒りで気絶しそうになった。目を閉じ、それから開いて、ジェレフはギリスの首をつかんだ。 「仕事なら、今してる。お前はな、もう、帰れ。エル・ギリス」 「ジェレフ、絞めてる」  ギリスは首を絞められて藻掻いていた。お前も息はしてるんだなとジェレフは感心した。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(9) ----------------------------------------------------------------------- 「その子がエル・ギリス?」  壁際から面白そうに様子を見ていた案内役が、ギリスを指さして訊いた。ギリスは十六歳で、その子と呼ばれるほど幼くないはずだが、海辺の者たちの目には、自分たちは年齢より若く見えるらしかった。 「これがエル・ギリスですが何か」  首を絞めたまま、ジェレフは答えた。 「エル・ジェレフ、ギリスが死んでしまいます」  サフナがはらはらしたように忠告したが、ジェレフは大丈夫ですと答えた。死ぬほどは絞めてません。気は遠くなるでしょうけど。それくらいの目に遭わせたいんですから。 「フォルデス殿下がその子を必ず連れてくるようにと」  案内係が、ぐったりしているギリスを指さしたまま言った。  珍獣だからですか。勢いでそう応じかけて、ジェレフは気付いた。  どうしてギリスのことを知っているんだろう。スィグルが鷹通信(タヒル)でも打ってきたのだろうか。出立の時には会わせたくないような口ぶりだったが。  不意に気が済んで、ジェレフはギリスを解放した。  咳き込んでいるギリスを、エル・サフナールが心配そうに見ている。 「ジェレフ、なにかが走馬燈のようによぎって見えて気持ちよかった」 「そうか、それが天国の門だ」  丈夫なやつだとジェレフは思った。ギリスは子供のころからとにかく強靱だった。竜の涙の中には、頭の中にある石のせいで、幼少のころから足元がふらつくような不運な者もいる中で、ギリスはまさに殺しても死なないような奴だ。  エル・イェズラムが言っていたように、笑うと愛嬌があって憎めないやつだが、その打たれ強さが時々猛烈に憎く思える時があった。たとえば今がそうだ。 「殿下は、ここから少し離れたところにあるご自宅でお会いになるそうですから、謁見される方はそろそろ馬車のほうに。もう準備ができているはずです」  誰を連れていこうかと、ジェレフは考えた。  タンジールから伴ってきた透視者は双子の男で、向かいの長椅子に瓜二つの顔で腰掛けている。彼らと自分と、それから、指名されてしまったからには、ギリスを連れていくしかない。  ほかの者は残していくことにした。何か思いも寄らないとばっちりがあると困る。  残った者たちに、この足で早々に滞在先である領事館に戻るよう伝えて、ジェレフは双子とギリスを伴い、用意されていた馬車に乗った。  サウザスの街は夜だった。  王宮の庭には、そこかしこに、紙で火を覆った行燈(ランタン)が飾られていた。ぼんやりと明るく、紙に描かれた様々な文様や絵を浮かび上がらせているその光は、タンジールを照らす光に比べると、いかにも頼りなく野蛮だったが、ジェレフには美しく見えた。  しかし、ここで一生を送りたいとは到底思えない。  石造りの都市は、真新しかったが、単純で、取り柄といえば大らかさだけに思えた。  艶やかに広がるタンジールの目映い商業層が、不意にとても懐かしく思い出され、にわかな里心に苦しめられている自分をジェレフは感じた。 「ギリス、行くからには約束してくれ。向こうのことは、殿下と呼べ。挨拶以外は口にするな。相手の目を凝視するな。この部族では、挑戦していると思われる。それから、相手がお前を指さしても、それには深い意味はない。絶対に魔法は使うな。絶対にだ。わかったか」 「わかってるよ。ジェレフ、苛々すんな。俺はやるときはちゃんとやるから」  馬車の向かいの席で、ギリスはどこかむくれたような顔をしていた。 「ちゃんとしなくていい、何もするな」  苦笑して、ジェレフは念押しした。 「殿下を診たら、俺たちタンジールに帰れるのか?」  ギリスが馬車の窓から異国の街を眺め、そう尋ねてきた。 「いいや。着いたばかりだろ」  長旅をしてここまで来たのだ。やるべき仕事はまだ沢山あったし、これから一ヶ月は滞在する予定だった。 「俺、もう帰りたい。タンジールに」  いつになくひ弱な感のあるギリスのぼやきを聞き、ジェレフはこいつも案外参っているのかなと驚いた。 「そう言うな。嫌なら嫌でいいから、領境の外をよく見ておけよ。いかにタンジールが素晴らしいか、改めて思い知れる」 「そんなの、どこにも行かなくても思い知れる」  切なそうに、ギリスは答えた。  ジェレフは消沈している悪童の横顔を苦笑して眺めた。  双子の透視者が、声をそろえて、麗しの(フラ)タンジールと讃え、ギリスを励ました。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(10) -----------------------------------------------------------------------  廊下に猫がいた。  真っ黒い夜のような毛並みをしており、闇の中に灯っているような二つの瞳は、金色をしていた。  取り次ぎの者が、室内にいるイルス・フォルデスに来客の到着を告げている間、ジェレフたちは廊下で少々待たされた。  そこへふらりと猫は現れた。 「にゃあにゃあだ」  嬉しいのか、ギリスがふざけた調子で猫に呼びかけた。  しっ、とジェレフは黙るようにギリスを叱りつけたが、そんなことを意に介する奴ではない。  自分たちの足元まで偵察にやってきたらしい黒猫に屈み込んで、ギリスは猫の鳴き真似をしている。しかし黒猫はつんと澄ましていて、ギリスに取り合わなかった。 「ジェレフ、こいつ海辺の猫だから、こっちの言葉が通じないみたいだ。海エルフ語でにゃあにゃあは何て言うか知らないか」 「知るわけないだろ、そんなこと。猫に言葉の壁なんかあるのか」  呆れた小声で、ジェレフは答えた。これが、やるときはやる男の姿と言えるのか。  居室の扉が開かれ、取り次ぎの者が入室していいと伝えに来た。  しゃがみこんでいたギリスを慌てて立たせ、ジェレフたちは控えの間を抜けて、中に入った。  王族の居室ということで、無意識に、目のくらむようなのを想像していたが、それに反して中はあっけないほど質素だった。白漆喰の壁に、庭を望むテラスがあり、そこでは王宮にあったのと良く似た紙製の行燈(ランタン)が燃えている。夜風の入る室内は、床が暗い色合いの陶板で敷かれており、何台かの長椅子と、簡単な食事を盛りつけた低い食卓があった。  椅子に腰掛けていたらしい少年は、こちらが入ってくるのを見て、立ち上がったところだった。確かに彼は、広間で彼の兄と手合わせをしていた少年だ。  浅黒い肌と、青い目をしており、褐色の髪を束髪にしていた。王宮の夜会から戻った、そのままの格好だった。王族の礼服なのだろうが、黒エルフの王族が身に纏うものと比べると、あまりにも実際的で、まるで普段着のようだった。 「イルス・フォルデス・マルドゥーク殿下」  挨拶をして、深く一礼しようとしたこちらに、彼は右手を指しだした。握手をしようという意味だと思えたが、ジェレフは虚を突かれて、ただ彼の顔を見つめただけだった。  うっかり凝視しても、イルス・フォルデスは真っ直ぐこちらを見つめ返した。彼は父親には少しも似ておらず、人を拒まない、淡い微笑のような表情をしていた。 「英雄(エル)・ジェレフ」  正式な名で呼ばれ、ジェレフは微笑を返した。彼はこちらの部族の作法を知っているらしかった。誰がそれを彼に教えたか、見当がついて、ジェレフは笑ったのだった。  まだ大人とは言えない少年の手を握り返して、ジェレフは目礼した。 「族長リューズ・スィノニムの命を受けて参りました。スィグル・レイラス殿下がご体調を心配しておいでです」 「わざわざ来てくれて、ありがとう。俺はあいつの二倍は元気だよ」  そう言って笑う彼は、確かに健康そのものに見えた。額冠(ティアラ)の下は計り知れないが、それ以外のところに竜の涙らしきものは見あたらず、魔法を使うようにも到底見えなかった。今でもまだ帯剣したままでいる彼は、どう見ても剣士だったからだ。  さっそく診察を、とジェレフは考えた。  それより先に、まずは根本的なところから説明したほうが良いのかもしれなかった。  頭の中にある石が何をもたらし、その石を持つ者がどのように振る舞うべきか。 「英雄(エル)・ギリス」  イルスが視線をそらして、半歩後ろにいたギリスを呼んだので、ジェレフは内心ぎょっとした。  そうだった。彼はなぜか、ギリスに用があるのだった。  イルス・フォルデスは気さくに、ギリスにも右手を差しだした。ギリスにその意味が分からないはずはなかったが、彼は相手の手を見つめ、凍り付いたように動かなくなった。  挨拶に応えないまま、ギリスは視線をあげて、じっとイルスの青い目に見入った。  お前、なにか言えよと、ジェレフは焦った。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(11) ----------------------------------------------------------------------- 「なぜギリスをご存じなのでしょうか。レイラス殿下から何かお聞きなのですか」  ギリスの静止のあまりの心苦しさに、ジェレフは押し出されるように口をはさんだ。それを切っ掛けに諦めたのか、イルスはギリスに差しだしていた右手を引っ込め、こちらに目を戻した。気を悪くしたふうもなく、彼はただ苦笑していた。 「スィグルが? 知り合いなのか」  何も知らないらしかった。しまったと思って、ジェレフはただ曖昧に首を横に振った。 「では、誰が殿下にギリスのことをお伝えしたのでしょうか」 「エル・イェズラムだ」  ギリスがぽかんとしたように、こちらを見た。  まさか知らないのだろうかとジェレフは思った。  確かに、エル・イェズラムの最後の英雄譚(ダージ)に、この異民族の少年の名は出てこない。だがイェズラムは、彼ら同盟の子供達を守るために戦ったのだ。停戦を維持するために。そしてそれが英雄の最後の戦だった。  ギリスにとっては、エル・イェズラムがなんのために戦ったかは、どうでも良かったのだろう。とにかく英雄はタンジールを去り、戻った時は石だけになっていた。養い親の最期を語る英雄譚(ダージ)を詩人達が奏でても、ギリスにはそれが現実のことと思えないのかもしれない。  幾多の歴史的な合戦場での、華々しい戦歴を誇る英雄の最期にしては、それは韻文で語るまでもないような、あっけないものだった。  エル・イェズラムはひとりで出ていき、ひとりで死んだ。鼓舞される大軍団も、率いるべき魔法戦士もいなかった。  彼の私闘だったのだ。 「遺言のようなものを預かっている。伝えるようなものかどうか判らないんだが」  言葉のとおりの困った顔で言い、イルスは押し黙っているギリスの固い表情と見つめ合った。 「イェズラムはよく、俺をお前と間違えて呼んで、最期のときにも話しかけてきた。公用語じゃなかったから、俺には意味がわからなかったけど、一緒にいたシェルが黒エルフ語がわかったんだ。それで、あとで意味を尋ねたら、教えてくれた」  言ってよいかと尋ねるように、イルスはギリスの顔を首をかしげて眺めたが、ギリスはやはり、微動だにしなかった。氷のような色の薄い目を見開いて、ギリスはじっと相手を凝視するだけだ。 「ギリス、今日はどんな悪戯をしたのだ、とイェズラムは言った」  教えられても、ギリスはまったく反応しなかった。まさか聞いていないのではないかと、ジェレフは危ぶんだ。だが、しばしの沈黙ののち、ギリスはやっと小声で応えた。 「それだけか」  イルスはそれに頷いてみせた。 「それだけだ」  そして死んだ、とは彼は言わなかったが、それがイェズラムの最期の言葉なのではないかとジェレフには思えた。  あの人は、たぶん見かけよりずっと、ギリスを可愛がっていた。重い病苦と闘うなかで、この痛みを感じないという能天気な子供を傍近くに置く感覚が、ジェレフには分からないこともあったが、エル・イェズラムは他の者には絶対に看病を任せなかった。自分など病床のある部屋に近寄ることさえ許されなかったのだ。  気楽だったのだろうか。  ギリスが話す、どこか外れたような話を、エル・イェズラムはいつも笑って聞いていた。ギリスが悪戯をして、皆を困らせ腹立たしくさせるのも、晩年の英雄には、このうえなく可笑しいらしかった。  長老会の実質の首長であった彼が許したので、ギリスはいつまでも悪童のままでいられたのだ。 「殿下」  唐突に、ギリスはまた言葉を発した。どこかのんびりした口調だった。 「イェズラムは強かったか」 「強かった。守護生物(トゥラシェ)をひとりで倒せる男がいるとは、俺はそのとき初めて知った」  憧憬を隠すこともしないイルスの言葉に、ギリスは淡く微笑んだ。 「イェズの得意技だよ。あれには、こつがあるのさ」  そう言うギリスはどこか誇らしげだった。  彼もたった一人で守護生物(トゥラシェ)を屠ることができた。しかし彼が自分の強大な魔力や、華々しい英雄譚(ダージ)を誇るのを、ジェレフは未だかつて聞いたことがなかった。  たぶん、天真爛漫なギリスにとって、それは、実際どうでもいいものだったのだろう。  初陣で、ギリスは突撃する隊に押し迫る、見上げるような巨大さの守護生物(トゥラシェ)を、いちどきにまとめて二十八体も倒した。突進する先に待ちかまえるものを、彼は全て凍らせたのだ。  凍り付いた彫像のような敵を縫って、竜の涙たちは敵陣深くに無傷のまま突き進むことができた。  一気に魔力を使い切ったギリスが失神して落馬するのを、ジェレフは目の前で見た。騎手を失った目隠しされた馬は、恐慌しており、ギリスを蹄にかけた。仲間を追うべきところを、ジェレフはとっさにギリスを救いに走っていた。  そうしなければ後続の馬に踏み殺されていたのではないかと思える。今や、この戦場随一となった小さい英雄の、最初の英雄譚(ダージ)が、最後の英雄譚(ダージ)にもなるというのでは、彼にとっても皆にとっても、あまりにも惨いとジェレフは思ったのだ。  傷を治してやると、ギリスは怖がる様子もなく、戦いに戻ろうとした。  そこまで大量の魔力を一気に消費する者を、ジェレフは知らなかった。一戦きりで命が尽きるのではないかと心配になり、なんとかギリスを陣に帰らせようとしたが、彼はこちらの言うことなど全く聞いていなかった。  初陣に興奮して、英雄譚(ダージ)を得ようと焦っているのかと思った。  軍は勝利し、最大の功労を果たしたギリスを、族長は言葉を極めて誉めたたえた。  それをぼけっと聞き、褒美はなにがよいか尋ねる族長に、ギリスは迷う様子もなく応えた。  鷹通信(タヒル)を送りたいと。  族長はそれを聞き入れ、ギリスは詩人たちが戦陣で書き上げた彼の英雄譚(ダージ)の一節を書き写したものを鷹に持たせて、タンジールに向けて放った。長老会の首長に宛てて。  それで満足なようだった。  後に、正式に奏でられた無痛のエル・ギリスの英雄譚(ダージ)を、エル・イェズラムは何が面白いのか、ほとんど爆笑しながら聞いていた。ギリスの手ひどい悪戯の話を聞くときと、それは何ら変わらない上機嫌さだった。  たぶん、ギリスにとっては、宮廷で悪戯をするのも、戦場で守護生物(トゥラシェ)を倒すのも、根っこのところは同じなのだ。それをすれば、エル・イェズラムが笑う。  そういうことなのか、と、ジェレフはまた黙り込んでいるギリスの横顔を眺めた。  何を考えているのやら見当もつかない沈黙のあと、ギリスは突然に右手をのばして、向き合って立っているイルス・フォルデスの手を奪うように握った。皆ぎょっとしたが、それは握手のようだった。  唖然としたようなイルスに、握り合わせた手を振りながら、ギリスは真顔で尋ねた。 「殿下、海エルフ語でにゃあにゃあは何というのですか」 「ね……猫の鳴き声か?」  氷結の魔導師が握る自分の右手を見下ろし、イルスは少し仰け反っていた。 「ミャウミャウ」  頷くギリスに頷き返しながら、イルスは律儀に答えた。 「みゃうみゃうか」  最後に両手で相手の手を握ってから離し、ギリスは踵をかえして部屋を出ようとしていた。  ジェレフはあんぐりとした。挨拶もしないで出ていこうとしている。まずいのだが、引き留める言葉を思いつく間もない。 「殿下……少々お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」  ジェレフが焦って頼むと、イルスは小さく何度か頷いて許した。  もう扉を開けて出ていったギリスを、ジェレフは彼の名を呼びながら追った。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(12) -----------------------------------------------------------------------  探さなければギリスは見つからなかった。  廊下の角を曲がったところで、ギリスがしゃがんで、さっきの黒猫と対峙しているのを、ジェレフは見つけた。 「ギリス、せめて退出の挨拶くらいしないとだめだ」  頭ごなしに叱責する気がせず、ジェレフは控えた声でギリスをたしなめた。  しかしギリスはいつものように、全く聞いていないふうな背中をこちらに向けており、自分の前に座っている猫に、みゃうみゃうと鳴いてみせている。  猫は逃げはしなかったが、冷たいほどにギリスを無視していた。 「お前、そっくりだな。あいつに」  背後に立っても、ギリスはジェレフを振り返らず、猫に話しかけた。 「そう思わない? こいつスィグルにそっくりだろ、見た目も性格もさ」  ギリスが罵るように言うと、猫はにゃあと鳴いた。名前に反応したように聞こえた。 「……スィグル?」  ギリスが訝しげに呼びかけると、猫はやはり、にゃあと鳴いた。いや、ミャウと鳴いたのかもしれなかった。海辺の猫なのだから。 「お、お前、まさかスィグルって名前なのか」  それが驚天動地の出来事であるかのように問うて、ギリスは猫を捕まえようとした。しかし黒猫はするりとギリスの手から逃れ、薄暗い廊下を何歩か先まで逃げた。 「そんな馬鹿な、逃げるなこら。どうして逃げるんだよ」  ギリスは困ったふうに猫を追いかけた。しかし猫は知らん顔をしている。まるで聞こえないかのようだった。 「……スィグル」  泣きつくように、ギリスは猫に呼びかけた。すると猫はまたミャウと答えた。 「お前、部族の言葉がわかんないのかよ。恥ずかしいと思わないのか」 「ギリス、ただの猫だから」  可哀想になって、ジェレフはギリスをたしなめた。  どんな顔をしているのだろうと思ったが、見たくないような気もした。まさか泣いているのではなかろうかと恐ろしかった。ギリスがそういう感情を顕すことは、幼い子供のころですら無かった。少なくともジェレフの知る限りではそうだ。 「なあジェレフ、イェズは死ぬとき俺と話したんだろ。あいつとじゃないんだよな」  ギリスはぼんやりとした声で、そんなことを言った。  お前、泣いてないよな。ジェレフは内心でそう呼びかけた。頼み込むような気分だった。 「なんでだろ、ジェレフ……」  エル・イェズラムの死を受け入れられずに苦しんでいるのだ。この場に居合わせたのが運の尽きだ。慰めてやらなければ。  そう思って、ジェレフはギリスのそばに屈み込もうとした。 「なんか俺……ゲロ吐きそうなんだけど」  きっぱりとそう言って振り向いたギリスの顔色は蒼白だった。嘘と思えなかった。 「よせ、せめて泣け。ここで吐くな」  とっさになだめようと、ジェレフはギリスの丸めた背に手を置いた。この際、魔法でもなんでも使って治させなければと思ったが、吐き気を止める方法をジェレフは知らなかった。知っていればとっくに使っていた。自分か、エル・サフナールに。 「なんで泣くの」  なにかを堪えているのが明らかな声色で、ギリスは呟いた。 「悲しいからだよ。お前いま悲しいんだよ。普通は悲しいところなんだ、こういう時は!」 「俺、泣いたことないから……わかんな……」  げふっ、とギリスの喉が鳴った。思わず悲鳴をあげて、ジェレフは彼の口を覆った。  しばらくお互いに息をとめて、必死で堪えているふうなギリスの背中をさすった。 「あー……治ってきた。やばかったな、でも」  じっとこちらを見上げて、ギリスはにやりと面白そうに笑った。 「ここでジェレフの礼服にゲロ吐いてやったら、イェズがどんなに喜んだか」 「英霊がそんなもんに喜ぶか!」 「喜ぶって。絶対そうだよ。やっぱ、もいっぺん吐いてみようか」  そう言って自分の口に手を突っ込もうとするギリスの腕を、ジェレフは必死で引き抜こうとした。目眩のする話だが、ギリスに吐き方を教えたのはジェレフだった。以前、派閥の部屋(サロン)の宴会でギリスが大量の酒を飲んだときに、昏倒しかけたので、あわてて吐き戻させたのだ。 「勘弁してくれギリス!」 「俺はほんとに情けない、あいつが俺より大切だというやつが、あいつと同じ名前をつけた猫まで飼ってるなんて、ものすごく情けない。そいつがイェズの遺言まで知ってて、イェズを看取ったなんて。しかもなんか良い奴っぽいし……俺は誰に当たればいいんだよ、お前しかいないんだジェレフ」 「あとで飲むのに付き合うから! ここの酒はうまいらしいぞギリス!」  ギリスの両腕を掴んだまま、ジェレフは説得した。剣呑な半眼で、ギリスはじっとこちらを見た。 「ほんとか」  ジェレフは頷いて請け合った。ひどく酒精の強いものらしいが、味はいいと聞いている。  ギリスは年に似合わず酒豪だった。飲ませると酔っぱらうので、誰もギリスに付き合いたがらなかった。しかし一人で飲む質ではないらしく、宴会から追い払われると、いつもつまらなそうにしていた。  今は無理でも、飲ませれば大人しく泣くのではないかという期待が、ジェレフの中にはあった。 「戻ろう、ギリス。仕事なんだから」 「嫌だ、俺はここにいる」  立ち上がらせようとするジェレフの手を拒んで、ギリスは廊下の先に座っている澄ました黒猫を指さした。この上なく挑戦的な態度だった。 「あいつに、思い知らせてやる。俺のほうが大切だということを」  恨んでるんだな、出立のときの仕打ちを。ジェレフはどこか呆然としながら、そう思った。  猫は金色の眼でじっとこちらを見返し、馬鹿にしたように、ミャウと一声鳴いてみせた。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(13) -----------------------------------------------------------------------  真珠を買いに行きたいのですと、エル・サフナールは言った。  滞在している部屋の戸口に現れた彼女に、ジェレフは顔を出し、明日行きたいという土産物の買い出しの誘いを聞いていた。  廊下で立ち話をさせるのも失礼だったが、部屋の中に招き入れるわけにもいかなかった。  女を男の部屋に引き入れるのはまずいというのも無いではないが、それは時と場合による。なんで今なんだエル・サフナールと、ジェレフは思った。  なんで俺の部屋で大酒を飲んだギリスがとぐろを巻いている時に、あなたはわざわざ来たんだ。 「もちろんお供します。一人で行かないほうがいいです。でも後で相談させてください」  自分は酒臭いのではないかとジェレフは思った。  なにしろギリスに付き合わされて、しこたま飲んだところだ。  飲酒はあまり誉められた習慣ではなかった。部族の者には下戸も多かったし、そうでない者が酔っぱらっているのを白眼視する向きもある。なにしろ族長が下戸なので、宮廷では飲酒を遠慮する空気があった。  しかしジェレフは酒が好きだった。同輩ばかりの仲間内ではよく知られた話だ。もちろん男ばかりの場でのことだ。  きゅうに立ち上がって歩いたせいか、なんとなく朦朧とした。 「族長閣下のご三男の診察は上首尾でしたでしょうか」  なおも粘る気配で、エル・サフナールは話を継いだ。  彼女が自分を口説きにきたのだということは、ジェレフには判っていた。そういうことは、大抵、一瞬でわかる。 「うん。でも、ものが竜の涙だから……」  答えかけて、ジェレフは自分の言葉が少々馴れ馴れしいのではないかと思い、額をおさえて口ごもった。  やばい、本当に酔っている。 「酔ってらっしゃるのですか」  なんとなく気恥ずかしげに、サフナールは尋ねた。彼女は相変わらずの男装だったが、細くふにゃりとした黒髪を、肩口でゆるく結い、そこに花の形をした髪飾りをつけていた。  可愛いなあとジェレフは考えた。ギリスではないが、呉服商から女物の服をもらってくればよかった。きっと喜んだだろう。彼女でなく自分が。 「酔っていません」  いいや、確実に泥酔している。嘘で答えた自分の返事に、ジェレフは参った。 「お留守の間に、正妃様から遣いの方が寄越されて、わたくしにサウザスに留まるようにとおっしゃいました」  困ったように、サフナールは言った。やっぱりそうなったか。 「どうしたらいいでしょうか。わたくしもタンジールに帰りたいです」 「そんなの当然のことです」 「ええ……でも」  サフナは少しうつむいて、躊躇うようにもじもじした。 「エル・ジェレフ。あなたは族長のご三男の治療のために、しばらくこの地に留まられるのですか? もしそうなら、わたくしは、ご一緒できたほうが嬉しいです」 「サフナ……」  いきなりそんな本題に入る彼女に、ジェレフは衝撃を受けた。普通ならここで部屋に連れ込んで完了じゃないか。  なのになんであいつが部屋にいるんだ。 「ジェレーーフ!!」  ほとんど絶叫するようなギリスの怒声が、背後から聞こえた。  勢いよく全開された扉が壁を打って、ばん、とけたたましく鳴った。自分より身の丈の低いギリスに、背後から腕をかけ首にぶらさがられて、ジェレフは息がつまった。ほかにもいろいろ胸に詰まりそうな気分だった。 「なに逃げてんだ、吐くまで飲め!」  ギリスは酔っているのかまだ素面なのか判然としなかった。もともと酔っているようなものなのではないかとジェレフは思った。  ぽかんとしてこちらを見ているサフナの視線が猛烈に痛い。 「なんだサフナか。ジェレフを口説きにきたのか」  あまりに単刀直入に訊かれたせいか、それとも酔ったギリスの勢いに気圧されたのか、サフナはぽかんとした顔のまま素直にこくこくと頷いた。 「こいつはな……お前が思ってるような男じゃないんだぞ」  怨念のこもった声で、ギリスはサフナールに言った。ジェレフは口を挟もうとしたが、ギリスが首を絞めてそれを制した。 「弟(ジョット)なんかいるわけないだろ。今日と明日で相手が違うようなやつなんだぞ。いよいよって時に名前を呼び間違えて相手を萎えさせるようなやつなんだ」 「だれに聞いたんだ……」 「お前のことだって、どうやってやろうかとか、そんなことしか考えてないに決まってるんだ」 「考えてない、まだそこまで考えていません!」  ジェレフはギリスの腕を振りほどこうとしながら叫んだ。しかしギリスの腕は蛇のように執拗にからみついていた。暑苦しかった。  サフナはまだ、薄く唇を開いて、ぼかんとしていた。 「酔ってらっしゃるのですか」  さっきと同じ事を、サフナは尋ねた。 「地元の火酒を浴びるほどかっくらって、べろんべろんです」  勝手にギリスが返事をした。微妙に口調をまねられて、ジェレフはむっとした。 「わたくしも飲んでよろしいですか。お酒には目がないので」  ぽかんとしたまま、サフナールが尋ねた。 「えっ」  その相づちは、自分の声かギリスの声か、もう良く分からなかった。  駄目だと言われないのを確認して、サフナールはふらりと部屋に押し入ってきた。  そして膳の上にあった酒瓶を、その前の円座に優雅に横座りして彼女はとりあげ、ジェレフが飲みかけていた酒杯になみなみと注いだ。それを一気にあおろうとするサフナを、ジェレフは止めようとした。 「強い酒ですよ」  言ったが彼女はまるで気にせず、水でも飲むように、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。  酒杯の底を上げてから、サフナはふはあと深いため息をついた。 「おいしい」  にっこりと、彼女は笑った。どう見ても可憐な彼女が、どう見ても酒豪だった。二杯目を注ぐサフナールに、ジェレフの喉は喘いだ。もしかして自分より強いのではないか。 「どうなさったのですか」  きょとんとして、サフナは戸口に立ちつくしたままのジェレフの顔を見た。 「わたくしと一緒に吐くまで飲みましょう、エル・ジェレフ」 「それでこそゲロ仲間だな、サフナ」  ギリスが彼女に感心したように言った。うふふ、とサフナールは笑った。 「でも、わたくしは簡単には潰れませんからね。女部屋では底なし沼と……」 「女部屋?」  思わず聞き返すと、サフナールはまずいというように唇を押さえた。その仕草も可憐だった。 「さあ飲みましょう、エル・ジェレフ。とりあえず意識がなくなるまで」  エル・サフナールは一人用の円座の自分の隣を、とんとんと叩いてみせた。そこに座れという意味にしか思えなかった。  微笑むサフナールの美しい顔を、ジェレフは呆然と眺めた。まだ首にぶら下がっていたギリスが、酒臭い息とともに、ううんと呻いて耳打ちした。 「ジェレフ、据え膳食わぬは男の恥だから、こうなったからには突き進め」  お邪魔虫が、余計なお世話だった。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(14) -----------------------------------------------------------------------  猛烈な頭痛にがっちりと頭を銜えられていた。  目覚めた瞬間から続くその痛みが、はじめは何のことか分からず、石がまた成長してしまったんだとジェレフを悲しくさせた。  麻薬(アスラ)を使わねばと考えつつ寝床から身を起こし、そして、やっと気付いた。それが単なる二日酔いだということに。  昨日の礼服のまま、床でぐうぐう寝ているエル・ギリスの姿が目に入ったからだった。  そうだった。  酌上手のエル・サフナールに乗せられ、脳みそもとろけるくらい飲んで、途中から何も憶えていない。飲み直しはじめた時点でそうとう酔っていたはずだから、自分が昏倒するまで、もしかするとあっという間だったのではないか。  寝床だと思っていたのは、居室の居間の敷物の上だった。いのまに解いたのか分からない黒髪が、ばさりと顔に落ちかかってきた。それを払いのけようとして、ジェレフは悲鳴を上げそうになった。  半裸というか全裸だった。そこまでではないが、ほとんど裸だった。  そんな細かいところに取りすがっても、この際意味がなかった。とにかく、同じくほぼ素裸のエル・サフナールと抱き合って寝ていた。  床の上で。そして傍には空になった酒杯と酒瓶が。  そして向かいの座には、礼服を着たまま高いびきのギリスだ。  その上自分は何が起きたのか全く憶えていないのだった。  頭が。頭が割れそうに痛い。顔を覆って、ジェレフは嘆いた。何をされたんだ。というか、何をしたんだ。したのか、されたのか判らないが、とにかくジェレフは参った。  ううん、と甘くうめいて、目をこすりながらエル・サフナールが起きあがった。深酒の後だというのに、彼女の頬は健康そうにつややかで、胸も露わな裸身を隠そうという気配もなかった。 「あら。エル・ジェレフ。おはようございます」  彼女が状況に気付いていないのではないかと思い、ジェレフは言葉が出なかった。  自分に限って、まさかと思うが、酔って正体をなくした彼女を己の好いようにしたのではあるまいな。だとしたら彼女の挨拶に続くのは絶叫かもしれず、ジェレフは動くこともできずにただ身構えた。  しかし彼女は口元を覆って、可愛らしい長い欠伸をもらしただけだった。それから小さく鼻をすすり、床に落ちていた自分の白い肌着を拾い上げて肩にはおると、ごそごそと床を這っていって、まだ深く眠っているギリスを揺り動かした。 「エル・ギリス。そんな格好で寝ていると、風邪をひくかもしれませんよ」  自分たちが裸で寝ていて平気だったのだから、服を着ているギリスが風邪などひくわけがないと、ジェレフは思った。呆然としながら。  優しく揺すられて、ギリスはうるさそうに目を醒ましたようだった。  彼女の肩に腕をかけようとするギリスを、サフナールはやんわりといなした。 「寝ぼけないで。私はサフナールです。あなたの兄(デン)でも弟(ジョット)でもないわ。起きてちょうだい。今日は買い物にいきたいのです。あなたも来なさい」  ギリスに話しかけるサフナールは、なにかとてもくつろいだ雰囲気だった。  言われて目が覚めたのか、ギリスががばっと驚いたふうに体を起こした。彼の髪はまだ結われたままだった。寝ている間に崩れた元結いが、だらしなく下がってはいたが。  ギリスが起きたのを確認して、エル・サフナールは微笑とともに自分の服を拾いに戻ってきた。  ガンガンと殴りつけるような頭痛を感じながら、ジェレフはこちらにやってきた彼女の顔を見上げた。 「すみません……」  もう謝るしかなかった。なんにも憶えていませんとは言いづらかった。 「なにがです?」  不思議そうに、サフナールが尋ね、こちらにジェレフの礼服を渡してよこした。 「何がか、実はわからないんですが」 「そうでしょうね。前後不覚まであっと言う間でしたから。案外弱いんですね、お好きな割には」  酒の話だよなとジェレフは怖くなった。 「うう……ん、ジェレフ、俺すごいものを見た」  まさか頭が痛いわけではないだろうが、頭を抱えたギリスが、まだ酒が残っているような顔で、朦朧とそう言った。 「俺はサフナを甘く見てた。なんかもう……羨ましいという領域をはるかに越えてた。お前、腰抜けてないか。俺じゃなくて本当によかったよ」  ジェレフは呻いて、そばで微笑んでいるサフナの顔を見た。 「ごめんなさいね、エル・ジェレフ。わたくし、あなたにいけないことを」  赤い唇に指をそえて、サフナは悪戯っぽく詫びている。  なんにも憶えていないんです。  でも何か、ひどい二日酔いに紛れてすぐには気付かなかったが、なんだかひどく体が疲れている。どうしてなんだろう。 「……見てたのか、お前」 「見た。ごめん」  恐ろしくなるほどの素直さで、ギリスが謝罪の言葉を口にした。 「気にすんなジェレフ。犬にかまれたと思って」  遠巻きに慰めるギリスの顔が真剣だったので、ジェレフはまた呻いた。 「お前がいつもああだとは思ってないから。安心して。昨日だけだよな、相手が悪かったよ、サフナはさ……それともジェレフ、もうあれが癖になって、ずっとサフナの弟(ジョット)なのか?」 「何の話……」  聞きたくないが、結局それを口にしてしまった。しかしギリスは、自分の口からはとても言えないと言うように、小さく首を横に振った。 「いやだわギリス、一晩だけよ。ダロワージの恋は一瞬の華なの」  ころころと鈴を転がすような声で笑って、長衣(ジュラバ)を着付けなおしたサフナールは言った。 「まあここは、ダロワージではないけど。わたくし皆と賭けをしただけなんですもの」 「賭け?」  ジェレフが思わず尋ねると、サフナールはにっこりと、ジェレフに微笑みかけた。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(15) ----------------------------------------------------------------------- 「ええ、そうです。あなたを落とせるか。成功したら、わたくしの勝ちで、皆がわたくしに真珠を買ってくれるのよ。これから宝石商にいって、いちばんいいのを選びましょう」  頬を染めて嬉しそうにしているサフナールの顔には、物欲、と大書してあった。  顎が落ちそうになっているジェレフと目を合わせ、サフナは急に、あ、そうだわと呟いた。  懐の隠しから、ごそごそと小さな紙切れを取り出し、サフナはそれを読み上げようとしていた。 「これを忘れてました。わたくしの兄(デン)から皆さんへの声明文です。えーと。亡きエル・イェズラムの派閥の皆様へ。英雄の死に心からお悔やみを申し上げます。派閥を引き継がれる方に申し上げます。わたくしたち、結社・紫の蛇の毒牙から銀の泉を守る会の者は、エル・イェズラム亡き後も攻撃の手をゆるめるつもりはございません。心して防戦なさいませ。まずは新首長のお一人とおぼしきエル・ジェレフに、わたくしの刺客をお送りいたしました。今回の模様はダロワージにて皆様に細大漏らさずご披露しておきます。ご無事でお戻りになりますよう、旅の安全を心よりお祈りしております。英雄(エル)・エレンディラ。かしこ」  脳をすり潰されそうな頭痛の中で、ジェレフはサフナールのどこか舌足らずな朗読を聞いた。  エル・エレンディラは長老会の一人で、女性だった。とても美しい人で、赤い華やかな石を冠のように髪に飾っている、雷撃の魔導師だった。エル・イェズラムと親しいとも、仲が悪いとも聞いたことがなかった。ただ彼女が熱心な族長派だという事実を知っているだけで。 「結社・紫の蛇の毒牙から銀の泉を守る会?」  ギリスがぽかんとした声で、サフナールに尋ねた。 「ええ、そうよ。そういうものがあるの。知らなかった?」  知らなかったと答える代わりに、ギリスはこくこくと頷いて見せている。サフナはくすりと楽しそうに笑った。 「それって名前のまんまの内容の会?」 「ええ、その通りよ、エル・ギリス」  ジェレフは目を瞬きながら、考えた。紫の蛇とはエル・イェズラムのことだ。彼の名前はそういう意味を持っていた。そして銀の泉とは族長のことだった。族長のリューズという名は、銀の泉という意味を持っているからだ。あまりにもそのまんまだった。 「毒牙って……」 「エル・イェズラムは、リューズ様の臣でありながら、いつも反逆して、いいところを持って行くので、むかつきます」  にっこり微笑みながら、サフナールはきっぱりと答えた。 「それはそれで部族のためにもなることですから、目はつぶりますが、リューズ様を命とも崇めるわたくしたちは、報復のためのいやがらせをすることにしたのです」 「イェズにもなんかしてたのか、あんたたち」  ぎょっとして、ギリスが尋ねる。 「してました。でも向こうのほうが上手で、連戦連敗でした。ですから今こそ、その腹いせを」  夢見るように、華奢な顎の先で両手を組み合わせ、サフナールは答えた。 「ごめんなさいね、エル・ジェレフ。あなた個人に恨みはないのです。むしろ好きですけど。でもあなたはエル・イェズラムの取り巻きだったから。標的になっても仕方がありませんわよね?」  同意しろという目で見られて、ジェレフは控え目に言っても泣きそうだった。  そしてくるりと振り向いて自分を見たサフナールの視線に、ギリスが慌てたふうに後ずさった。 「俺!?」 「さあどうかしら」  にやりとサフナールが意地悪く笑ってみせる。 「あなたのリューズ様への出立の挨拶、ちょっと失礼だったんじゃないかしら」 「ごめんなさい! 今度からちゃんとします」  脅しに一瞬で屈するギリスの謝罪には恥も外聞もなかった。  なにを見たんだ、ギリス。俺の記憶がない間に。 「さっ、タンジールにいる兄(デン)に報告の鷹通信(タヒル)を送らなくっちゃ。わたしく先に行っております。おふたりは真珠の買い出しに付き合ってくださいね。異国を一人歩きするのは危険ですから、護衛が必要ですもの」  ばさりと粋に長衣(ジュラバ)の裾を払って、エル・サフナールは颯爽と歩き出した。はっとしてジェレフは彼女を引き留めようとした。しかしサフナールは二日酔いの裸の男に捕まるような間抜けな人ではなかった。  ひらりとジェレフの手を踏み越えて部屋から出て行く彼女は、戸口から振り返って手を振ってみせた。 「ギリス、頼むから追ってくれ」  ジェレフは頼んだ。しかしギリスは首を振って拒んだ。 「いやだよ、邪魔したら俺もどんな目にあわされるか。あんな強烈なもんを、ダロワージでがんがん詠われたら、俺、帰ってからあいつに八つ裂きにされちゃうよ。よかった禁欲してて、あやうくバレるところだった」 「ギリス!!」  頭が痛むのも構わず、ジェレフは叫んだ。  衣服を改めて、鷹のところへ追っていったが、エル・サフナールはすでに、銀の矢(シェラジール)64号を遠く故郷に向けて放った後だった。  竜の涙に女はいない。  いるのは男と怪物だけだ。  もしかするとそれが、今回の旅でもっとも勉強になったことだった。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(16) ----------------------------------------------------------------------- 「妻がわがままを言ったそうだな」  族長の執務室にも、やはり玉座はなかった。大きく窓をとった明るく白い部屋に、大きな木製の執務机が置かれ、黒い革張りの椅子があるだけだ。  それらの調度品は洗練されてはいたが、やはり実用本位だった。  それに座る族長ヘンリックも、夜会のときよりさらに地味な出で立ちだった。絹を纏っているのも、王族としての申し訳を立てる程度ではないかとジェレフには思えた。  彼が身につけているもので、いちばん華美なのは、その剣帯に提げられている剣の鞘を飾った、色鮮やかなエナメル装飾だけだ。  タンジールの王族は、装飾品として太刀や短剣を身につけるが、彼が帯びている剣は、よく使い込まれていて、それもやはり実用品なのだと見えた。  きっと寝るときだって、この剣を抱いているに違いない。 「治癒者を残留させるよう、ご所望でした」  ジェレフは、ばれない程度に微かなため息をついた。暑かったからだ。  湿気の襲う海辺の空気の中で、肌着に襦袢と、礼装用の長衣(ジュラバ)を重ねた民族衣装で、そのうえ竜の涙を隠すための頭布(ターバン)まで巻いているのだから、暑くないわけはなかった。  族長に謁見するのだから、それ相応の出で立ちでやってくるのは礼儀のうちだが、いかにもあっさりした格好で涼しい顔をしている相手と向き合うと、自分の姿は、なんの我慢大会だと思いたくなる。 「率直に申し上げまして、正妃様のご病気は魔法で治るものではありません。それでも日々のご不快は取り除けると思いますし、延命も図れるかと思います。しかし我々竜の涙は部族の戦力であり財産ですので、我らの族長の許可無くして、こちらでお役に立つことはできません」 「リューズに聞けということだな」  そうです、と返事をしかけて、ジェレフはあわてて口をつぐみ、一礼した。  タンジールの王宮では、竜の涙は準王族として扱われ、王族の名を呼び捨てても、対等な口をきいても、咎める者はいない。しかし一歩領境を出れば、相手がどう感じるかは曖昧だった。  尊大に振る舞うつもりは、ジェレフにはなかった。無用の軋轢を避けたかったからだ。 「誰が残るのだ。お前か」 「そうなるかと」  覚悟を決めて、ジェレフは答えた。正使ではないサフナールに居残り役を押しつけるのでは男が廃る。可愛い顔をして、とんでもない人だったが、それが恨みで置き去りにしてきたと後ろ指さされたら、不名誉きわまりなかった。 「妻は、もうひとりのほうを所望のようだ。あれは女なのか」 「いいえ。違います」  きっぱりと、ジェレフは族長ヘンリックに答えた。するとヘンリックは妙な顔をした。 「お前は女なのか、男なのか」  あぜんとして、ジェレフは聞き返した。ヘンリックは苦笑した。 「お前は男のように見えるが、妻を癒やしたというのが、男だというなら、男女がどのへんで分かれているのか、俺にはさっぱり分からん」 「竜の涙には、男子しかおりません」  部族の建前を、ジェレフは異民族の族長に教えた。  ふうん、とヘンリックは納得したとも、疑っているともつかない相づちを打った。 「まあいい。リューズからして女のような面(つら)だからな」  そうだろうかとジェレフは意外だった。不本意だが、異民族からはそういうふうに見えているのだろう。 「息子達はどうだった」  本題と思える事を、族長ヘンリックが尋ねてきた。ジェレフは頷いた。族長は、予定外に彼の長男まで診察されたことを聞き及んでいるらしかった。 「ご長男は心臓がお悪いようです。これも根本的には解決できません。生まれ持った素養です。療養に努められれば、魔法を頼らずとも、ご健康を維持することは可能です。もちろん治癒術の効果は、一時的なものとしては大いに期待できますが」  ジェレフの顔を見つめ、ヘンリックはおとなしく頷きながら耳を傾けていた。 「ご三男は、我々と同じです。魔力を用いますと石が成長します。いずれはそれに殺されます。個人差がありますが、寿命は三、四十年ほどです」 「苦しむか」  簡潔な質問を、ヘンリックは口にした。余計なことは言わない人なのだなとジェレフは思った。 「苦しみます」  そういう相手に、砂糖衣をかけた言葉を与えても仕方がない気がした。 「治す方法はあるか」 「ありません」  その言葉が相手を深く傷つけすぎないように、ジェレフは小声で答えた。  ヘンリックは初めて顔をしかめた。そんなはずはないだろうと言いたげな表情だった。それでも彼は激昂する気配もなかった。ただ黙って、こちらを見ていた。 「その布をとって、お前の石を見せてくれ」  意外な要請に、ジェレフは一瞬、答える言葉を失った。海辺の者たちは、竜の涙を不吉なものとして恐れているはずだ。人前では絶対に隠し通すようにと厳命されてきた。  しかし相手が待っているので、逆らう理由も思い当たらず、ジェレフは頭布(ターバン)を解いて、自分の竜の涙をヘンリックに見せてやった。  海辺の族長は、青い目を細め、険しい顔でジェレフの頭をじっと睨んできた。  淡い紫色の石が、額から始まって、側頭を這うように成長している。結った髪に隠れている部分もあり、まだ自分の石は、それほど人を威圧するような気配は持っていないはずだ。  しかしヘンリックは、どこか痛々しそうにこちらを見ていた。 「お前はいつ死ぬ」  あまりの質問に、ジェレフはぎょっとした。だが、それが面白半分に訊かれたものではないことは、すぐ理解できた。彼は自分の息子がどれくらいまで生きられるか知りたいのだろう。 「分かりませんが、あと十年のうちだと思います」  そう答えてみると、短い一生だった。 「その限られた時間を、このサウザスで費やしていいのか」  目が離せないのか、族長ヘンリックはひたすらジェレフの石を見つめたまま、そう尋ねてきた。ジェレフはまた、返答に窮し、答えるべき社交辞令を頭の中で探した。 「我らの族長がそう命じるのであれば、喜んで従います」 「帰れ」  端的にそう命じて、目を逸らすためだろう、族長ヘンリックは椅子から立ち上がって、執務室に作られたテラスのほうへ歩いていった。 「息子達も妻も、お前の話によれば治りはしない。だったら時間を無駄にするな。予定通りの滞在がすんだら帰れ。リューズには、俺が喜んでいたと伝えろ」  情けをかけられたような気がしたが、あるいは単に、これ以上の政治的な借りを族長リューズに作るのが嫌なだけかも知れないとも思えた。 「ありがとうございます」  それでもジェレフは礼を述べた。ヘンリックは微かに頷いたようだった。 「お前は、その石に殺されるのが怖くはないのか」  茫洋とした海を背景にして、ヘンリックはこちらを向いた。 「怖いです」  ジェレフは正直に答えた。 「では、イルスも怖いのだろうな」 「そのはずです」  ジェレフの答えに、族長は小さく首をかしげ、こちらを眺めた。疑っているのではなく、それは彼の癖のようだった。  しばし考えてから、ヘンリックは小さなため息をつき、乾いた唇を舐めた。 「お前は少しも恐れていないように見える。勇敢だな。お前がその恐怖とどうやって戦うか、息子に教えていってくれ」  そう頼んで、族長ヘンリックの話は終わりだった。  あっさりしたものだとジェレフは思った。  自分たちが崇める族長のような、人を酔わせる甘いものは、彼の言葉にはいっさい無かった。それでも彼は、この海辺の、荒ぶる野蛮な部族を、難なく治めているのだった。  気さくなところがいいのかな、と、ジェレフは考えた。愛想がいいとは言えないが、彼は命じる時でも、隣に立って話しているような気配がする。タンジールで跪く自分たちは、遠くに輝く星をまぶしく振り仰ぐように族長を崇めるが、この海辺の者たちは、あの夜会の席でそうだったように、親しく並んで歩くこの男を、友を助けるようにして仕えているのかもしれない。  そういうのも、また一つの王朝か。  納得しながら、ジェレフは深々と一礼し、退出しようとした。 「おい」  後ずさろうとするジェレフに、ヘンリックが木訥に声をかけ、族長冠をした彼の額を、指でこつこつと叩いてみせた。 「出てるぞ」  頭布(ターバン)を解いたままだった。  ジェレフは恐縮して、また一礼した。そして手早く頭布(ターバン)を巻きなおそうとしたが、その姿を眺めてテラスにいる男が、喉を鳴らして笑いはじめたので、焦ってしまって中々上手くいかなかった。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南」(17) -----------------------------------------------------------------------  すっかり慣れて、潮の香りを感じなくなっていた。  湾岸での滞在も一ヶ月を超え、あらゆる予定を消化し尽くした。  帰郷の時だった。  出港の支度を調えて潮を待つばかりとなった船上で、ジェレフは舷側からサウザスの街並みを遠望していた。  初めて降り立った時には、ひどく奇妙に見えたこの都市も、やっと住み慣れた頃合いだった。いざ離れるとなると、なにやら後ろ髪引かれる思いがするから不思議なものだ。  滞在中、エル・サフナールは責任を感じてか、族長ヘンリックの正妃のところを時々訪れ、話し相手になっていたようだ。深入りしなければいいのにとジェレフは気を揉んだが、一度癒やした相手が気にかかるのは治癒者の習いだ。自分にしても、彼女のことをとやかく言えるようなものでもなかった。  ジェレフは正使として族長から仰せつかった公務をこなす傍ら、空いた時間にはなるべく、イルス・フォルデスの館を訪ねるようにしていた。いかにして竜の涙と戦うか教えていけと、族長ヘンリックと約束したせいだが、王族らしからぬ気さくな少年が気に入ったのもあった。  彼には家族もいたし、世話を焼く侍従もいる。友人もいた。しかし同じ死を待つ境遇の仲間はいない。  それが彼と自分たちの決定的に違うところではないかとジェレフは思っていた。  いつやってくるか分からない自分の死は、ジェレフにも恐ろしかった。だがそれに心を支配されないのは、これから行く道を自分に示してくれる兄たちがいて、自分が模範を示すべき弟たちがいるからだ。  仲間達とともに歩み、英雄(エル)の称号を冠して呼ばれる自分の名を辱めぬように生きることには、日々新たな感動があった。ともすれば、自分は石を持って生まれてきて、むしろ幸せだったのではないかとすら思える。  そのような世界がこの世にはあるのだと、彼に教えていくことが、自分がこの街に遣わされた理由だろう。  ひとりで戦わなくていい。  確かにサウザスとタンジールは遠く離れた別世界だが、順風を帆に受ければ、たった一月の船旅だ。皆いつも、すぐそばにいる。 「これは船酔い除けのお守りだそうです」  すでに顔面蒼白のエル・サフナールが、縄を編んだような素朴な組紐を、ジェレフの眼前にさしだした。 「首からさげるのです」  買い込んだ真珠で飾られたきらびやかな胸元に、エル・サフナールはその一見ごみのようなお守りを大事そうに下げていた。 「あなたの分も買ってきてさしあげました。どうぞ」 「そんなもの本当に効くと思っているんですか、エル・サフナール」  出航前からすでに船酔いしている同士だった。  渋るジェレフの手に、お守りを押しつけて、サフナは今にも倒れそうな儚い風情で、舷側にとりついた。 「効かないでしょうか……」 「俺もいま最悪の気分ですが、あなたがそうして苦しんでいるのを見ると、正直言っていい気味です」 「ひどいわ……わたくしがあなたに何をしたというのですか」  色々したんだろ。  結局思い出せなかった例の夜のことを思って、ジェレフは内心でサフナを罵った。つくづく、とんでもない人だった。それでも無事にタンジールに帰れることになって良かった。 「ジェレフ、これ書けたけど。いつまで書くの」  使い古した感のある帳面をひらひら振り回しながら、エル・ギリスが舷側にやってきた。相変わらず船酔いとは縁のなさそうな、憎たらしい極めて健康そうな顔をしていた。 「言行録か……」  頷きながら帳面を渡してくるギリスから、それを受け取り、ジェレフは中を開いた。なにかを読むような気分ではなかったが、とにかく自分が言い渡した仕事なのだから、面倒を見ないわけにはいかない。  たまたま開いたページを、ジェレフは読んだ。  そこにはこう書かれていた。  某月某日。猫がいた。ジェレフと酒を飲んだ。ジェレフがサフナに犯された。もう帰りたい。 「……ギリス」  とっさに言葉がなくて、ジェレフは悪童の名を呼んだ。 「誰が旅日記を書けと言った」 「え、言ったじゃん、ジェレフがさあ。旅の記録をつけろって」 「言行録はな、後任の者が旅するときに参考になる事柄や、後世に伝えるべき事柄を書くんだ。お前はエル・イェズラムの言行録を参考にしてまで、いったい何をやっていたんだ」 「俺はジェレフがサフナに強姦されたことを後世に伝えたいんだけどな」  ギリスが言い終えるのを待たずに、ジェレフは帳面を海に投げ捨てた。絹張りの表紙をはためかせながら、それは青い海に落ちていった。 「あっ、捨てやがった! 俺の旅の思い出を!」 「ごみだ」  海に吸い込まれていく帳面を見送るギリスの背に、ジェレフは言ってやった。 「あぁ、わたくしもう吐きそうです。いっそサウザスに残ればよかった」  舷側にすがってくずおれながら、エル・サフナールが嘆いた。 「なにか、なにか方法はないのでしょうか。この船酔いから逃れる方法は」 「酒でも食らえば、サフナール」  まだ悔しそうに海を見下ろしながら、ギリスがそんなことを言った。  名案だった。  どうせ酔うなら船にではなく、すっかり飲み慣れた海辺の火酒に酔っていたほうが、よっぽど気分がいいだろう。 「お前もたまには冴えてるな、ギリス。俺は船室で飲むことにしよう」  なんとなくふらつく足元を踏みしめながら、ジェレフは舷側を離れ、船室におりる細い階段を目指して甲板を行った。 「ひまだから俺もつきあう」 「わたくしも」  ギリスとサフナールがすかさずそう提案したのを、ジェレフは振り返った。 「いいえ。俺は戸に鍵をかけて一人で飲みます」  引き潮を告げる銅鑼の音が、異国の調べを鳴り響かせた。白い帆が順風を受けて、頼もしく張りつめた。ここから先、次に降り立つ時には、懐かしい砂の海の上にだ。  それまで、この筆舌に尽くしがたい連中とおさらばして、ひとりで引っ繰り返って酒を浴びているのだ。それがいい。とにかく疲れた。たとえようもないが、楽しい旅だった。  あとは白い帆に身を任せ、故郷で待ち受ける尖塔(ミナレット)に、フラ・タンジールと呼びかける時を、ゆったりと待つばかりだ。  詩人たちなら、お定まりの調子で、こう詠うだろう。  そろそろ物語の時は尽き、この勲(いさおし)はこれまでにて、英雄たちの戦いはなおも続く。新たなる物語は別の巻にて、息を呑み耳をそばだてて聴くダロワージの静寂に、いやなお晴れがましく響き渡るであろう。  そうして船はサウザスの港を離れた。 《英雄達の旅はこれで一巻の終わり》 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南・帰郷編」(1) -----------------------------------------------------------------------  熱砂の海を避けて、隊列は夜歩く。  帰り着くタンジールはいつも、朝焼けを背景に浮かび上がっていた。  尖塔(ミナレット)が砂丘の陰から現れる瞬間には感動があるが、階層状の都市層を抜けて、王宮の門をくぐるときには、安堵があった。  また生き延びて、我が家に帰り着いたという安心感に包まれる。  急いで旅装を改めて、朝儀を行う族長に、帰投の挨拶をしに行かねばならなかった。騎獣を降りて、ジェレフは慌ただしく王宮の通路を行き、竜の涙たちの居室が与えられている区画まで足早に歩いていった。  砂じみた旅装の一団を認めて、仲間達がお帰りと声をかけてきた。  三ヶ月ぶりに会う顔は、どれも懐かしかった。 「とうとう帰ったのか、無事でなにより!」  行き合った同輩と、ジェレフは求められて握手をした。満面の笑みで、ジェレフの手と肘を掴み、彼はひどく愛想よく、握った手を何度も振ってきた。 「ジェレフちゃん」  含みのある笑みだった。 「なんだそれは」  いやな予感がして、ジェレフは相手を問いただした。しかし面白そうに首を振られるばかりだ。  通りすがる誰彼となく、同じ笑みとともに呼びかけてきた。 「おお、帰ってきたか、ジェレフちゃん」  同じ派閥に属する同輩にも、そんなことを言われて、ジェレフは思わず足を止めた。いつもの飲み仲間だった。 「なんなんだ、その呼び名は」 「これだよ」  たまたまそこにあった、という雰囲気で、同輩は近くの部屋から巻物をとってきた。詩人が詠う叙事詩か戯曲のもののようだった。  紐をといて中身を読み、ジェレフはその場に倒れそうになった。  客地から、エル・サフナールが送った例の鷹通信(タヒル)が、とんでもなく下劣な枕話に化けていた。こんなもの事実ではないと思いたい。 「よ、読んだのか」  そうに決まっているが、ジェレフは思わず訊いた。 「読んだ。というか聴いた。玉座の間(ダロワージ)で」  元気を出せというように、同輩はジェレフの肩を叩いた。ジェレフは開いた口が塞がらなかった。 「みんな聴いたのか」 「大多数は」 「………………族長も?」  これから謁見しにいく白い顔のことが頭をよぎり、ジェレフはほとんど無意識に訊ねていた。 「さあ、どうだろう。俺が聴いた時には、お姿は見かけなかったけど」 「じゃあご存じないんだよな。そうなんだろ」  語気強く念押しするジェレフの肩を叩いたまま、同輩は気まずげに、しかし面白そうに目をそらした。 「それがお前の心の支えになるなら、そう思っておけよ」  目を合わさずに何度か頷かれ、ジェレフはうめいた。  とにかく。  着替えに行かないと。  礼服に。  もっと問いただしたい気持ちから自分を引き剥がして、ジェレフはまた通路を急いだ。  気もそぞろに礼服を纏い、玉座の間(ダロワージ)へ辿り着くと、朝儀はまだ続いていた。使節団が帰郷したので謁見したい旨を侍従に伝え、ジェレフは他の連中が集まるのをやきもきして待った。  一人も欠けずに傷病の類もなく戻ることができ、命じられた仕事も全てつつがなくこなしてきた。何ら恥じるところのない帰郷のはずだ。  だから大丈夫。  ものほしそうに王族の席を見てぼけっとしているエル・ギリスの尻を叩き、ジェレフは呼ばれた順序に従って、玉座の前で跪拝叩頭した。  族長リューズはまず長旅を労い、客地での首尾を手短に訊ねた。経過がおしなべて順調であったこと、族長ヘンリックが感謝していたこと、予定外の出来事なども、ジェレフは端的に伝え、詳細は報告書を提出すると締めくくった。  リューズは満足しているふうに頷き、玉座から淡い微笑みとともに、こちらを見下ろしていた。  ジェレフはそれに、ほっとした。帰ってきたなと、三度思った。  サウザスの港町も慣れれば良いところだったが、やはり自分にはこうして、煌びやかな玉座の間と、そこに君臨するこの人がいてくれるのが、一番しっくりくる。 「報告書は急がずともいい、まずは皆、体を休めよ」  玉座の肘掛けに頬杖をつき、族長リューズは耳飾りを弄んでいた。いつもやっている癖だ。その仕草も懐かしい。そしていつも最後には、我が英雄よと呼びかけてくれる。畏れ入って平伏し、ジェレフはその言葉を期待して待った。 「ジェレフちゃん」  唐突に族長が小声でそう言い、くすりと笑い声をもらした。  ジェレフはぎょっとして顔をあげた。 「いや、そうではなく、我が英雄よ」  広間(ダロワージ)に笑いをこらえる熱気が籠もったのが、感じられる。 「なにごとも、ほどほどにしておけ」  諭すような、からかうような口調で、リューズがそう言った。  愕然として、ジェレフはとっさに、背後に平伏しているはずのエル・サフナールを振り返った。彼女は赤い唇で、にやりと意地悪く笑い返した。その彼女の背後に見え隠れする、王族の席に侍る取り巻きの席から、赤い竜の涙を冠のように頭に飾った、長老会のひとりがこちらを見ていた。  ひどく美しい女(ひと)だった。彼女もサフナールと同じ笑みで、じっとジェレフの顔を見た。  英雄(エル)・エレンディラ。  はめられた。そうだ。あの人の目論見だったのだ。  泣いていいなら泣きたいほどの情けない気分で、ジェレフはやむなく族長に平伏した。 ----------------------------------------------------------------------- 「パスハの南・帰郷編」(2) ----------------------------------------------------------------------- 「皆様、お土産の真珠とお菓子ですよ」  一抱えある小箱を携えて、サフナールが部屋(サロン)の扉をくぐると、髪を編んでいたり、お喋りに興じていた懐かしい顔が、どれもみな花が咲いたように微笑んで、出迎えてくれた。 「お帰りなさい。底無しサフナの凱旋ね」  通り道に座っていた同い年の女戦士が、サフナから真珠の髪飾りを受け取りながら、そんなふうに冷やかした。 「いやだわ、その呼び名。まるで、わたくしの酒癖が悪いみたい」  この部屋(サロン)にやってくるのは竜の涙の女ばかりだ。皆、しきたり通り男装しているが、装身具と、甘いものと、男の噂には目がない連中ばかりだ。  どうだった、どうだったと口々に訊かれながら、エル・サフナールは海辺の街で買い入れた土産物を、惜しみなく皆に撒いてやった。船酔いしたり大変な旅で、二度と行きたくないけれど、こうして喜んでいる皆の顔を見たら、旅の疲れも吹き飛ぶわ。  いちばん気に入っている、豪華な帯飾りの真珠を取ろうとする誰かの手をぴしゃりと叩いて、サフナールは部屋(サロン)の奥にある上座に腰を落ち着けている人のところへ、空いた床を拾い歩きながら近づいた。  サフナを見上げて、煙管(きせる)をふかしていた長老エレンディラは、脇息にもたれたしどけない姿勢のまま、婉然と微笑んできた。 「戻りましたわ、我が兄上よ(エ・ナ・デン)」  すぐそばに腰を下ろして、サフナはエレンディラの見事な刺繍を施されてある飾り帯に、つややかに輝く真珠を挟み込んだ。それは思った通りの品があり、彼女によく似合った。 「うまくやったようね、我が弟よ(エ・ナ・ジョット)」  エレンディラは長い睫毛のある瞼を、何度か瞬かせて笑ったが、それはいい気味だという上機嫌の表情だった。うっふっふとサフナールは笑い返した。 「紫の蛇めの巣で育った者に、とうとう吠え面かかせてやったわよ」  ふうっと細く煙を吐き出して、エレンディラは独り言のように呟いた。 「まったく兄上(デン)はよっぽどエル・イェズラムに恨みがおありなのですね。いったいどんな経緯があったのですか」  遠慮無く胡座をかいて、サフナールは旅疲れした小さい自分の足から、礼装用の絹の靴を抜き取り、開放的な素足にしてやった。 「それは言えません、いくらお前にでも」 「まあそんな、けちんぼを」 「とにかくです。これで終わりと思わせないで、もっとどんどんおやりなさい。お前はどうして、あの悪童はほうっておいたの?」  火を消すように、サフナールに煙管を渡して、エレンディラは咎めるように訊ねてきた。 「エル・ギリス? あの子はまだまだ子供ですもの。それにお馬鹿さんですよ」 「まあぁ」  大仰に驚いてみせて、エレンディラは帯を飾った真珠に触れている。 「あの子は忠義なだけですよ。頭は悪くはありません。お前もまだまだ小娘ですね。ギリスは役に立つけれど、それもこれもイェズラムの言うとおりなのだから、まったくもって腹の立つこと」 「怒っていないで、お土産のお菓子をめしあがって」  箱に並んだ宝石のような菓子を差しだして、サフナールは兄(デン)をなだめた。  可愛さ余って憎さ百倍とはまさにこのことで、エレンディラは亡き首長に忠実であったのに、一方では、いやがらせばかりしていた。この人も、相手があっさり逝ってしまって、ふりあげた拳の落としどころがないのだわ。 「リューズ様に誠心誠意お仕えするように命じたのは自分のくせに、あの人は反逆ばかりでしたよ。挙げ句に宮廷を出て行って、おっ死んで戻るなんて、勝手にもほどがある」 「まったくもって、そうですわね、エレンディラ」 「お前の相づちは真心がなくて腹が立ちます」  錐で刺すようにエレンディラが言うので、サフナールはころころと笑った。  さばさばした性格の彼女は、女にしてはきっぱりしていて陰であれこれ言うようなところがなく、人に慕われて長年この派閥の長だった。彼女の庇護を求めて、主に女ばかりが部屋(サロン)に集まってきた。いつまにか長老会のひとりとして数えられる歳になっており、それをエレンディラは厭がっていた。  死ぬなんてつまらないわと口癖のように彼女は言っている。  サフナもそう思う。貴女が宮廷で死ぬなんてつまらないわ。どうせなら戦場で、皆で抱き合って死にたいわ。力が尽き果てるまで、わたくしが癒やしてあげる。 「イェズラムはギリスに新星を与えたそうですよ。サフナール、お前も新しいほうに鞍替えしたらどう。まだ若いのだから」  その話はサフナールには初耳だった。  それではギリスがいつも追いかけ回していたのがそうなのだろう。  どんな星だか知らないが、サフナには、今あの玉座に輝いている星がいつかは墜ちねばならぬのだということが、納得いかなかった。  ギリスったら、いやな子ね。 「わたくしはリューズ様が好きですわ。二君に仕えようとは思いません。どうせなら殉死でもしてみようかしら。そういうのは美しいと思うのですけど」  あらそう、とエレンディラは気のないふうに相づちを打ち、潮風で痛んだサフナの黒髪を咎めるような目で眺めながら、毛先を指でつまんできた。 「お前もっと髪を大事におし。命はともかく、髪を粗末にするのは女の名折れですよ」  そう言うエル・エレンディラの長い黒髪はつややかで、本当に見事なものだった。地下深くの闇のように黒々と、結われもせずに床を這っている。  それじゃあ湯殿にいって、髪にいい泥でも塗ってもらおうかしら。潮風と砂で肌も荒れたし。せっかく王都に戻ったのだから、せいぜい磨き立てようかしら。  土産物の菓子を口に放り込んで、サフナールは計画を立てた。異国の甘さが、舌の上でゆっくりと蕩けた。それを故郷で味わってこそ、最高の贅沢だった。 ----------------------------------------------------------------------- 習作「死せる英雄の肖像」(前編) ----------------------------------------------------------------------- 「これ、お前が描いたんだろう」  珍しくギリスが部屋まで現れたと思ったら、彼は荷物を持っていた。絹張りの薄板に挟まれたそれは、昔描いたエル・イェズラムの絵姿だった。  いくらか古びて薄黄色くなった紙に、ペンで引いた黒い線だけで、昼寝をしているエル・イェズラムが描いてある。  スィグルはその絵を自分が描いたことを、もちろん憶えていた。  まだ自分が暢気に宮廷を遊び歩いていた子供だったころに、行き合う人々の姿を次から次へと描いてまわっていた。玉座にいる父が絵を誉めたので、毎日届けて喜ばせるために、父のよく知る人物たちから描き始めたような気もする。  エル・イェズラムは竜の涙の長老会のひとりで、スィグルは子供のころ、彼は族長である父の権限をおびやかす敵なのだと思っていた。イェズラムは父の朝儀に現れなかったし、稀にスィグルが見かける二人は、王宮の通路で早口に罵り合っているように見えたからだ。  そんな父の敵をからかうつもりで、昼寝しているところを描いてやったのだった。  その絵を見せにゆくと、イェズラムはなぜか大変気に入り、スィグルの絵を誉めた。大人になったらお前は絵師になるといい、とイェズラムは言った。リューズはたぶん、お前がほかの何になるより、絵師にでもなって、日がな一日絵の具にまみれて王宮の壁に絵を描いて生きるほうが喜ぶだろう、と。  話してみると、エル・イェズラムは気さくで、父と親しい友人のように見えた。部族でも随一の英雄にほめそやされると、単純に嬉しく、スィグルはすっかり手のひらを返してイェズラムが好きになり、彼の言を真に受けて、王宮の壁を相手に絵の具にまみれた一日を過ごし、その壮大な落書きを見つけた母と侍従たちとに、こってり絞られることになった。  母から経緯を聞いた父は、部屋で泣きべそをかいていた自分を励まし、大人になってもお前がまだ絵を描きたければ、王宮の壁を一枚やろうと約束した。  今となっては壁画を描きたいなどとはスィグルは思っていなかった。王族の子が絵師になれるわけもないし、なりたいとも思わない。たぶん自分は沢山いる兄弟たちの中から、スィグル・レイラスは特別だと父に思わせたい一心で、なにか目立つ方法はないか、いつも探していたのだ。  いかにも子供っぽい感情だ。  最近では、わざわざ父に絵を届けるようなことは、しようとも思いつかなくなっていた。絵を描くのは今でも好きだが、それは手慰みの落書きだ。独り言を言うのと似て、頭の中にあるものを、なんとなく整理するために描いているだけだ。  客用の座に座り、胡座した膝の上にイェズラムの絵を広げて見せているエル・ギリスを、スィグルは眺めた。どうしてこいつが、この絵を持っているのだろう。 「イェズの形見だよ」  尋ねると、ギリスは親しげに答える。 「エル・イェズラムは、この絵をずっと持っていたわけ」 「そう。他より自分に似ていると言っていた。俺もそう思うな。イェズは暇さえありゃあ寝てるしな」  にっこり微笑んで話すギリスの言葉の中では、すでに墓所にいるイェズラムは、まだ部屋で昼寝をしているかのようだった。  ギリスは人の死をうまく消化できていないらしい。彼が話すのを聞いていると、死んだ者たちは、なにかの用事でちょっと地下の墓所までおりていき、そのうちふらっと戻ってくるみたいに感じられた。 「ギリス、エル・イェズラムは具合が悪くて寝ていたんだろう。僕はほんとはこんな絵を描くべきじゃなかったよ」  スィグルはその落書きを気に入っているらしいギリスに、苦々しい気分で教えてやった。人に見せて歩くようなものではないと、彼には理解させておかないとまずい気がする。 「でもみんな、この絵が好きみたいだぞ。お前にもっとちゃんとした絵に描いてもらえるように頼めって、長老会から言われて来たんだ」  口にしかけた果実水を、スィグルは吹き出しそうになった。  今日エル・ギリスは、まるで正式な訪問のように、先触れの者に訪れを連絡させてから、スィグルの居室にやってきたのだった。まるでではなく、本当に正式な訪問だったのだ。その可能性に全く思い至らなかった自分が、スィグルには信じられなかった。  ギリスは自分の英雄譚(ダージ)を持つ竜の涙の魔法戦士で、宮廷ではちゃんとした序列に数えられる立場だった。  子供のようにふらふら遊び歩いていて、口をきけば馬鹿なことばかり言っているから、すっかりそれを忘れるが、こいつも朝儀の広間(ダロワージ)には自分の席を持っているのだ。王族の部屋を訪問すれば、それなりの礼儀で迎えられる権利を持っている。  略装だが、ギリスは身なりのいい黒の長衣(ジュラバ)を着ていた。半時ばかり前に先触れが寄越されたというのに、だらだらと普段着で出迎えた自分が、スィグルは急に後ろめたくなった。 「……そんなの絵師に描かせればいいだろ」 「さあ、とにかく話は伝えたから、返事をしたきゃ長老会に言えよ」  もう用事はすんだというように、ギリスは面倒くさげにそう返事をした。餓鬼の遣いか、と、スィグルは悪態をついた。  長老会が大げさにせず、こいつを遣いに寄越したのは、断りたければ断っていいという程度の軽い頼み事だったからだろう。それでも、できれば描けという意味合いで、正式な遣いとして身なりを整えさせたギリスを部屋に訪れさせたのだ。  ただ話をすればいいだけなら、ギリスはスィグルとそこらへんで会ったときに、ちょっと言えばいいだけだった。どうせギリスは暇さえあれば自分のあとを追いかけ回しているのだし、それは誰でも知っていることだ。  大事そうに絵を仕舞っているギリスを、スィグルはどことなくむっとして見守った。 「描いてやってもいいけど、長老会はその絵を何に使うつもりなんだい」 「ダロワージに飾るんじゃないのかな。それが無理なら長老会の広間(サロン)に」  あっけらかんと言うギリスを、スィグルはまじまじと見た。それは、確かに、もっとちゃんとした絵に違いなかった。そこらの紙に、思いつくまま落書きするのとは話が違う。 「練習しないと無理だよ」 「じゃあ練習しろよ」  笑って言うギリスの言葉はいつもながら身も蓋もないし、駆け引きもない。  竜の涙であるギリスが、長老会の命を受けて、王族である自分のところへ、公式でもなく非公式でもないぐらいの訪問をし、本来なら王族に頼むようなことでない絵の依頼をし、その絵がダロワージに飾られるという。ダロワージは父リューズの広間(サロン)であり、長老会がそこに絵を飾るというのは異例であろうし、ましてそれはエル・イェズラムの絵姿で、生前めったに朝儀に現れなかった彼が、この先ずっとダロワージの壁にいて、そこから父の治世を眺めることになるというのは、何やら意味深長だった。  この依頼を受けてもいいものか。何か不都合が起こるのではないか。まず父に意見を聞くべきではないか。  スィグルは考えたが、ギリスでは相談相手にもならないと思った。まだスフィルと話したほうが、相手がいっさい返事をしないぶん気が楽だ。 「やってはみるけど、いいのが描けなければ辞退すると返事しておいてくれ」 「いいのが描けるよ」  悩みのない顔で、ギリスは請け合った。こいつには政治が分からないのだと、スィグルは呆れた。 「お前の部屋に来たの初めて」  物珍しそうに、ギリスは部屋を見回した。もしかすると王族の居室に入るのは初めてなのかもしれないとスィグルは思った。  ギリスは派閥争いに感心がなく、スィグルと付き合いがあるのも、後見人だったエル・イェズラムがそうしろと言い残したからというだけで、王族と付き合っているという意識はないに違いない。ギリスは他の王族たちとは全く縁遠かった。  竜の涙である彼が、王族であるスィグルと親しく付き合うというのは、客観的に見れば、継承争いが始まった時に、ギリスはスィグルを押し立てて争うという意味になる。  彼を知れば知るほど、そんなことがギリスにできるわけがないと、スィグルは思っていた。だから正式な付き合いにならないように、部屋には来させなかったし、玉座の間(ダロワージ)での公式の席ではギリスに声をかけないようにしていた。  それでも晩餐のときに同席するのだから、そんな小細工は無駄とも言えたが、そこはそれだった。あくまで一人で飯を食うのがいやだったし、スィグルはそのあたりを周囲が自分に都合良く解釈してくれるよう期待していた。甘い考えだとは思うが、ギリスはこんなふうに子供っぽく見えるし、政争に身を投じるようには到底見えない。皆も目こぼししてくれるのではないかと思いたくもなる。 「遣いを先に出せば、部屋に来てもいいのか?」  味をしめたように言うギリスに、スィグルは最上級の渋面を作って見せた。ギリスはそれに、不味い物でも食ったような顔をした。 「どうしてだめなんだよ」 「僕だってお前の部屋にはいかないだろう」 「来ればいいじゃん」  彼らしいあっさりした解決法を口にして、ギリスは抵抗した。 「王族が竜の涙の部屋を訪問すれば、そこには特別な意味合いが出てくるんだよ」 「そんな難しく考えなくても。俺たち兄(デン)と弟(ジョット)だろ。族長だって時々はイェズのところに来たぜ。……怒鳴りにだけど」  ギリスの言わんとする話に、スィグルは唖然とした。  しばらく口をぱくぱくさせてから、スィグルはやっと言葉を見つけた。 「ギリス、今なにを言ったか分かってるのか」 「……俺いま、なんか言ったのか」  驚いているスィグルに驚いたらしく、ギリスは叱りとばされる直前の顔をして身構えた。 「イェズラムは父上の家臣だぞ。会う必要があればイェズラムのほうが来るべきなんだ」 「違うだろ。イェズは長老なんだし、族長に仕えてるわけじゃない。それにイェズのほうが兄(デン)だろ」  スィグルはとっさに杯の飲み物をギリスの頭にぶちまけた。さすがのギリスも虚をつかれて悲鳴をあげた。 「なにすんだよ、いきなり!」 「お前が妙なことを言うからびっくりしたんだよ」 「びっくりしたらなんで頭から水をかけるんだ」  滴り落ちてきたものを手で拭って、ギリスは情けなそうにした。 「水じゃない、果実水だ」 「余計いやだよ」  悄然とするギリスを、スィグルはやや反省して眺めたが、謝罪してやる気にはなれなかった。 「撤回しろ。ありえない話だ」 「イェズは族長の兄(デン)だよ。ふたりは乳兄弟だろ。イェズのほうが年上だし、族長のほうが弟(ジョット)だろ」  ため息をつきながら、ギリスはぼそぼそと話した。  スィグルはその話にうめいた。 「乳兄弟」  その話は誰でも知っている当たり前の事実だった。父とイェズラムは同じ乳母に育てられたのだ。それが縁でふたりは同じ派閥に属し、血の繋がった兄と弟以上に助け合ってきた。  兄(デン)と弟(ジョット)の関係は、本来そういうものだ。それを性愛を含む意味合いで使うのは、宮廷の隠語だった。 「お前どうせ、色っぽい想像をしたんだろ。やりすぎて頭がへんなんじゃないか」  言い返してやる言葉が湧かず、スィグルはただ頭を抱えて呻いた。まさかギリスに一本とられるとは想像もしていなかった。意図してやったわけではないに決まっているところが、さらに苦々しく、自分が掘った穴に自分で落ちた事実に、スィグルは身悶えたいのを堪えた。  ギリスは部屋付きの女官を勝手に呼びつけて、体を拭くものと、紙とペンを、それから間食にする甘いものまで注文した。頭を抱えているスィグルを女官は不思議そうに見たが、無礼だと察したのか、すぐに引き下がっていった。 「部屋に行く行かないぐらいで、いちいち政治の話かよ。お前ら王族は面倒くさいなあ。これが族長になったらどうなんの。俺もお前に会うだけのために、いちいち正装してダロワージで叩頭しなきゃなんないの」  家臣が族長に謁見するというのは、そういうことだった。スィグルは黙っていた。 「族長にならなきゃいけないもんなのか」  やめようよ、という意を滲ませて、ギリスは尋ねてきた。 「やめたら先がない」  スィグルは小声で答えた。 「継承権て、放棄できるんだろ」  ギリスの言うことは正しかった。族長が継承者を指名する前の段階であれば、継承権を放棄して臣籍に下り、争いから身を引くことができる決まりになっていた。 「でも父上は、臣籍にくだった兄弟たちも、皆殺しにしてしまった。担ぎ出す者がいる限り、継承権を放棄するなんていうのは絵空事なんだよ」  スィグルはそのことに関わらず、継承権を放棄するつもりはなかった。内心で自分が、父の族長冠を狙っている自覚はあった。将来の玉座に座るのが自分でなければ、自分自身の命が危ういのは当然としても、継承争いに参加するはずもないスフィルも殺されるだろう。それが血筋というものだ。 「ああ……それでか」  納得したように、ギリスは呟いた。話と相づちが噛み合っていない気がして、スィグルは眉をひそめた。 「不戦のシェラジムを知ってるか、スィグル」  ギリスはすでに過去の物語となっている竜の涙の名前を口にしていた。  不戦のシェラジムとは、渾名であるが、それは詩人たちが英雄譚(ダージ)の中で魔法戦士たちに与える類の栄誉のあるものではなく、宮廷の薄暗がりで囁かれる悪名だった。  暗愚な族長として記憶されている祖父の、一番の腹心だった竜の涙で、シェラジムは戦いを拒み、ひとつとして英雄譚(ダージ)を持たぬまま、宮廷での権力闘争に明け暮れた。権力欲にかられ、祖父を傀儡として、シェラジム自身が陰から、族長位の権力を振るったのだと見なしている者もいる。  真実のところは分からない。  祖父が死ぬとき、シェラジムは殉死した。だからスィグルは本人を見たことはない。  その物語は一族の恥だった。王族にとっても、竜の涙にとっても。 「シェラジムが死ぬとき、介錯をしたのは、イェズラムだ」  ギリスはスィグルの知らない話をしていた。 「イェズが頭をかち割って取り出してやったシェラジムの石を、いっしょに墓所に見に行ったことがある」  スィグルはその想像に顔を歪めた。竜の涙が没した時に、頭蓋骨を割って石を取り出してやるのは、故人と親しかった者がかけてやるべき情けだ。それをしてやる者が誰もいなければ、族長が行う決まりになっていた。 「小さい石だった。シェラジムは治癒者だったらしい。ジェレフみたいにさ。でもシェラジムは、命を助けるより、とりあげるほうが上手かった」  シェラジムは自らが主と立てる王族を即位させるため、継承争いが始まると同時に、祖父と争う王族たちをいちどきに全て暗殺した。しかし、そのような汚れた手で掴まれた族長冠に、宮廷も民も、心からは跪かなかった。  王朝は荒れ、領土は荒廃した。  父リューズが即位するまでの時代の出来事だ。  イェズラムは、シェラジムと親しかったのだろうか。介錯を買って出るくらいに。 「イェズはシェラジムから、族長の作り方を学んだんだって言ってた」  ギリスがなにか壮大な話をしようとしていることは、スィグルにも予感できたが、彼の話には脈絡が感じられなかった。スィグルは注意深く耳をそばだてて聞いた。 「シェラジムはお前のじいさんを即位させたが、そのあと放置したんだ。族長位につけるなら、死ぬまで面倒をみる覚悟でいけとシェラジムは話したそうだ。そこが大事なところさ。即位させなきゃ死ぬし、させたらさせたで戦わなきゃならないし、戦えば寿命は減るばっかりで、最後まで付き合えなくなっちゃうだろ。だからって戦わないと、不戦のシェラジムになっちまう。イェズラムは結局、英雄譚(ダージ)を選んだけど、俺はどうしようか。よく考えろってイェズは言うけど、俺は考えてもわからないよ」  ギリスは困ったように、相談する口調で話したが、スィグルは答える言葉を持っていなかった。  彼は竜の涙たちの内輪の話をしていた。彼らの社会は他の者を受け入れず、王族であっても竜の涙たちの長老会に立ち入ることは許されていない。彼らは族長の施政には口出しをするくせに、自分たちでは秘密裏に話し合っているのだ。 「なにが言いたいんだ、ギリス。まるでエル・イェズラムが父上を傀儡にしたような口ぶりじゃないか。シェラジムのように?」 「お前の親父は名君だよ」  スィグルの不機嫌を察して、ギリスは宥める口調になった。それはますますスィグルを不愉快にさせた。 「でも初めからそうだったわけじゃないだろ」 「そうか。それじゃあ僕も即位したらお前に操ってもらって、いつか名君になろう」  通じるわけはないと知っていたが、スィグルは怒りで耐えきれず、ギリスに皮肉を言った。彼が父を侮辱しているのだと思った。ひいては、その血統に連なる自分をも侮辱しているのだ。  ギリスは困った顔をした。 「無理だよ。俺はイェズとは違うもん」 「雲泥の差だよ。父上には優れた腹心がいくらでもいたけど、僕にはお前だけだからな。ギリスが真似できるとしたら、不戦のシェラジムが精々だろ」  気分にまかせて言い募りながら、スィグルは悲しくなってきた。  なぜこんな意味のない話で罵り合わないといけないのか。  女官が命じられものを携えて戻ってきたので、スィグルはやむをえず沈黙した。  邪魔が入らなければ、自分でも耳をふさぎたいような事を次々ギリスに喚きそうだった。  大抵、なにを言ってもギリスは平気そうにしていた。たぶん話が込み入ってくると、ギリスはほとんど聞いていないのではないかと思えた。それをいいことに、スィグルは時々、ギリスに鬱憤をぶちまけたが、そのたびに返って嫌な気分になるのが常だった。  幼子を怒鳴りつけているようなものだ。  苛立ちを抱えながら、スィグルは自分の口を閉じさせた女官に感謝した。  ギリスはのんびりと、女官の持ってきた布で、果実水を吸った髪と服とを拭いている。戻って着替えなければ、どうにもなるまいとスィグルは思った。追い出したくてやったわけではないが、いつにない半公式訪問の用件は、もう聞いた。 「今、イェズの遺品を片付けてるんだけど……」  頭にかぶった布の中から、ギリスが話を続けた。彼の話がまだ終わりでなかったらしいことが、スィグルには意外だった。 「族長の子供のころの姿絵が出てきた。幼髪の。気の弱そうな子でさあ、今とは別人みたいだった。イェズラムはああいうのに弱いよなあ。俺が守ってやらなきゃ、みたいなのにさ」  布を濡らした果実水の匂いを嗅いでみて、ギリスはこれはだめだという顔をした。 「じゃあ、どうしてそれが父上の絵だってわかったんだ」 「名前が書いてあったもん。リューズ・スィノニム・アンフィバロウって」 「お前が字を読めるなんて知らなかったよ」  顎を上げて、スィグルは冷たくギリスを見やった。彼が何を言おうとしているのか想像すると、スィグルには嫌な気分がした。このうえ重ねて父を愚弄するなら、もう許せない。 「俺もお前の姿絵が欲しい」  しかしギリスが差し向けた話は、スィグルが想像していたものとは違った。一瞬きょとんとして、スィグルはギリスと向き合った。 「イェズラムの遺品となんの関係があるんだい」 「お前が名君になっても、正体がどんなだったか、思い出せるように」  スィグルはむっとして、円座から立ち上がった。また即位の話か。  ギリスは女官が持ってきた白紙を一枚とりあげて、ひらひらと振ってみせた。 「落書きでいいんだよ」 「僕は自分の絵は描いたことがない。描けないと思う。見たことがないものは」 「鏡で見たことくらいあるだろ」  ねだる口調で言われ、スィグルはますます苛立ってきた。  望みをかなえてやれば、ギリスはいつものように、あの満面の笑みで喜ぶだろうと思えたからだった。  白紙の角で自分の指をつついてくるギリスを、スィグルは横目に睨み付けた。  我が儘なわけではないギリスが、なぜかいつも強引に感じられる。彼がどこかへ行くといえば、必ずそこへ行くことになるし、手を引いて連れて行こうとするギリスに、スィグルは逆らった例しがなかった。  どういう訳か知らないが、彼は自分の操縦法を知っている。  急に諦めがやってきて、スィグルはすとんと元の座に腰をおろした。  ギリスは満足げに紙とペンとを握らせ、ついでにスィグルの口の中に女官が持ってきた砂糖菓子を入れた。細かな粒子の砂糖を花の形に押し固めた菓子は、簡単に口の中で溶けたが、甘い味がするはずのそれは、どんな味もスィグルの舌には感じさせなかった。 「風呂かして」 「そんなの自分のところでやってくれよ」  瓶に入ったインクにペンを浸しながら、スィグルは文句を言った。おそらく言うだけ無駄だった。  先触れとともにやってきて、風呂まで使っていく来客のことを、広間(ダロワージ)で口をきかないからといって、派閥と関わりのない赤の他人だと言い張るのは、政治的に無理があった。  ギリスはもう一度女官を呼びつけ、入浴する旨と、自分の居室に着替えをとりにやってほしい事を伝えていた。女官は彼に、王族にも引けを取らない儀礼をもって一礼し、部屋から出て行った。 「退屈だし、いっしょに入ろうか」 「次はインクをかけてやろうか。どうせ風呂に入るなら同じだろ?」  立ち上がって浴室のほうに行くらしいギリスに、真顔でそう言ってやると、彼はそれを本気に受け取ったようだった。もちろん本気で言ったのだ。  ギリスはがっかりしたように見えた。  無視して紙に描きはじめると、ギリスは案内にあらわれた女官についていき、部屋から姿を消した。  なにを描くか決めずに、スィグルはペンを動かしたが、紙の上に現れたのは、つい今し方見た、がっかりしたギリスの顔だった。  どうせなら、笑っているところを描けばよかった。  そう思って、出来は良かったその絵を、スィグルは丸めて投げ捨てた。  ギリスの絵を描くのはやめようと思った。どんなに時がたとうと、彼は今と変わらないだろうし、たとえどんなに変わり果てても、ギリスと違って、自分は彼の正体を思い出すのに姿絵など必要としない。  満面の笑みだ。子供のような、あの笑顔。  それを紙に描いて、他の誰かが見るかもしれないと思うと、スィグルにはそれが惜しく思えた。 ----------------------------------------------------------------------- 習作「死せる英雄の肖像」(後編) ----------------------------------------------------------------------- 「うわ、なんだこれ」  浴室から戻ってきたギリスは、足の踏み場もないほど絵の散らばった部屋に、驚きと呆れの入り交じった声をあげた。描いていた絵から顔をあげて、スィグルは濡れ髪のギリスを横目に見やった。 「エル・イェズラムだよ」  ギリスはあんぐりと口をあけて、そこかしこにある紙の中にいる、自分の後見人の生前の姿を眺め回している。  スィグルは今思い出せる限りのエル・イェズラムの絵を描いてみたが、そのどれもが、普段着の略装姿だった。スィグルが知っている竜の涙の長老は、なんとはなしに気怠げに回廊を散歩している姿であり、それはとてもダロワージに飾られるのに適切な姿絵とは思えなかった。  適当な礼装を着せて描けばいいのだと思ったが、でっちあげでは、どうしても上手く描けない。  いろいろ苦心して、ふと思いついたのは、父が自分を人質にやる時に、トルレッキオまでの随行を買って出てくれた、華やかな礼装姿のエル・イェズラムだった。  思えばあれが、宮廷人らしく装ったイェズラムを見た最後だった。  あれならダロワージから父を見守るにふさわしい姿だ。族長の廷臣らしくあり、魔法戦士たちを率いる長老らしくもある。 「俺が風呂に入ってる間に、これだけ描いたの?」  びっくりしたという顔で、それでもどこか嬉しそうに、ギリスは床から取り上げた一枚を眺めている。ギリスは微笑んでいた。 「似てるなあ。お前ってほんとに絵が上手いよ」  スィグルは手放しで絵を誉められても嬉しくはなかった。 「もっと大きい絵にするなら、大きい紙を用意させないといけないよ」 「もらって帰って、長老会で選ばせてもいい?」  スィグルは頷いた。ほかに何か方法があるとも思えない。 「それはいいけど、俺が頼んだお前の絵は?」  きょろきょろと辺りを探して、ギリスは尋ねた。スィグルは指さして、その在りかを教えた。  ギリスは上機嫌にその一枚を拾いに行ったが、取り上げて眺めてから、なにか妙な表情をした。 「小さいよ」  頼まれた手前、試しに書きはしたが、どうしても気がのらず、紙のすみにぞんざいな線で描いただけになった。自分の顔など描いても、スィグルにはなんの面白みもなかった。 「それにこれ、なんか変だぞ」  紙の上の絵と、スィグルの顔を、やや離れたところから比べて眺め、ギリスは言った。 「反対になってる」 「鏡にうつったやつだからだろう」  スィグルの答えに、納得はしたようだったかが、ギリスはまた、がっかりしたという顔をした。  自分の顔を鏡を介さずに見る方法はない。スィグルには、ギリスが見ている自分の顔がどんなか、知る方法はなかった。  しかし、鏡像からそんなに大差のあるものとは思えない。傷もなければ、黒子もないのだし、目立って左右に偏りのある顔でもなかった。双子の弟の顔を見ていれば分かる。母方の血統を受け継いだ、砂漠の薔薇(オズトゥーシュ)系統の典型的な顔立ちだ。 「じゃあ、これでどうだろう」  ばれやしないと思って、スィグルは弟の絵を描いてやった。自分だと思って描くと気乗りがしないが、昔から、スフィルの絵を描いてやるのは好きだった。弟が面白がって喜んだからだ。  描き上がってゆく絵をのぞき込みにきて、ギリスは一瞬嬉しそうにしたが、すぐにまたがっかりした顔をした。 「これはお前じゃないだろ。弟のほうだろ」 「……なんでわかるんだよ、そんなこと」 「お前はもっと目が根性悪そうなんだもん」  すぐ横にいるギリスの純真そのものの表情と見つめ合って、スィグルは彼の言っていることが、嫌みでもなんでもないのだろうなと思った。 「根性悪くて済まないね」  描きかけのスフィルの絵を放り出して、スィグルは筆を置いた。絵の中にいる弟は、確かにどこか頼りなげだ。 「まあいいや、こっちで」  紙のすみに描かれたほうを、ギリスはまたじっと見つめた。本人の目の前で、じっと絵姿に見入っているのは、何かとても奇妙なように、スィグルには思えた。 「エル・イェズラムの姿絵を、ダロワージに飾っていいか、話が本格的になる前に、父上にご意向を伺った方がいいと思うんだけど」 「うん……」  どこか上の空で、ギリスは返事をした。 「もしも父上が敬遠なさったら、僕は描かないけど、それでいいよね」 「だめとは言わないさ」  ぼんやりとした声で、しかし明らかに断言するギリスに、スィグルは不思議になった。 「兄(デン)が死んで一番困っているのは族長なんだから。時々は顔を見たいと思うはずさ」 「父上はそんな弱い人じゃないよ。お前は自分が悲しいから、そういうふうに思えるだけさ」  腹立ちまぎれにそう言ってから、スィグルは気付いた。  ギリスには、悲しいという感情がないのだ。本当かどうかは分からないが、少なくとも本人はそう言っている。  ふと気付いたように、ギリスが持っていた紙を裏返し、灯火に透かしてそれを見た。不意にあの明るい笑みが、彼の顔にひろがるのを、スィグルは眺めた。 「こうすればお前の顔になったよ」  彼が自分ではないものに、その笑みを向けるのが、スィグルには異様に思えた。  やる気を削がれて、スィグルはその光景から目をそらした。  もうすぐ、晩餐のために広間に人の集まる時刻だった。女官に部屋を片付けさせて、自分もギリスも礼装に着替えねばならない。  根を詰めて絵を描いていたせいか、今日は珍しく腹が減っていた。  座に寝そべって、スィグルは高坏に盛られた砂糖菓子に手を伸ばした。指先ほどの大きさのそれを、二つまとめて口に入れたが、やはり何の味もしなかった。それでもとにかく、腹の足しになるならいい。 「なあ」  すぐ横に腰をおろしてきて、ギリスは床に沢山あるエル・イェズラムの絵を見た。 「悲しいって、どんな気分なんだ。俺はずっと、イェズの帰りが遅いなと思ってる。イェズの石も見たし、最後の英雄譚(ダージ)も聴いた。だけど今でもまだ、イェズが帰ってくるような気がするんだ。皆が言うように、泣けもしないし、つらくもない。遺品を見ても、なんとも思わない。イェズが俺の面倒をみてくれて、幸せだったって思うだけで」 「お前はお幸せなやつだよ」  もうひとつ菓子を貪って、スィグルは毒づいた。  自分でさえエル・イェズラムの死は悲しかった。いるべき人が宮廷にいなくなったという、空洞感があった。それでも今さら泣けてきたりはしない。恩人だったが、スィグルにとってはイェズラムは他人だった。彼のために泣く者たちは、自分の他にいるのだ。  たとえば目の前にいるエル・ギリスこそ、大恩ある後見人のために泣くべきだった。 「ギリスは僕が死んだって悲しくないだろう。あいつは根性悪だったって思うくらいなんだろう」  唇に残った砂糖を舐めとりながら、スィグルは早口にそう言った。  言葉のとおり、どこか幸せそうにエル・イェズラムの絵を見ているギリスが憎く思えた。こんなやつが、ダロワージに絵を飾って、それを玉座にいる父に見せようとは。いやがらせとしか思えなかった。  もし自分がその立場にいたら、きっとその絵を憎いと思うだろう。父にとって、イェズラムは最後の肉親だった。その不在を誰よりも身にしみて感じているのは、玉座にいるあの人だ。 「悲しいとか辛いとかいう感情は、口で説明できるものじゃないんだ。自然にどうしようもなく押し寄せてきて、人を苦しめるものなんだ。それが分からないお前は、とことん頭がいかれてるんだ。僕の舌が壊れてるみたいにさ。僕もいっぺんくらいはお前が、悲しくてひいひい泣いてるところを見てみたいもんだよ。だけど、甘さを感じない舌に、どうやったら甘い味を説明してやるれっていうんだ」  怒りにまかせて、スィグルがなじると、ギリスは何も答えず、隣に寝そべって、高坏から自分も砂糖菓子を食べた。  聞いているように見えないギリスが、スィグルは嫌になった。   身を起こして女官を呼ぼうとすると、それを引き戻して、ギリスが口付けをした。まだ口の中に残っていた砂糖菓子が、触れあう舌の狭間でゆっくりと溶けた。ギリスはスィグルの頬を支えて、味わうような長い接吻をした。スィグルには菓子の味は分からなかった。ただ切ない熱を感じただけだ。 「甘いってこういう味だろ」  彼が言っているのが、接吻のことだといいと、スィグルは思った。だが、そんなはずはなかった。菓子のことを言っているのだ。菓子のことだ。そうなんだろうと、スィグルは彼の目に問いかけた。  胸の奥の方にわだかまっていた考えが、急に形をとって、スィグルの喉もとに現れた。 「晩餐のときに同席するのは今夜から止そう」 「なんで」  微笑みながら、ギリスは答えた。話そうとするスィグルの唇の端に、彼はふざけて、ついばむような口付けをした。 「いっしょに食べてると、僕の派閥にいるんだと思われる」 「それがまずいか」 「継承争いに巻き込まれる」 「別にいいよ、そのためにお前といるんだから」  不思議そうに、ギリスはスィグルの顔を見た。無垢な顔だとスィグルは思った。 「たとえそうでも、僕には無理だよ。なにがあってもお前は平気で、いつでも幸せで、僕一人がつらくて苦しいのか。お前は変わらないのに、僕だけが、醜い兄弟殺しのあげくに、族長冠をかぶった悪魔にならなきゃいけないのか。それでもお前がいなきゃ僕は平気だよ、その絵を眺めて、お前が昔の僕のほうがましだったって言わなきゃな」  ギリスがいまだに大切そうに持ったままでいる紙を、スィグルは指で弾いてやった。 「お前、自分の絵に妬いてんの?」  ギリスはびっくりしたように言った。スィグルはむっとした。そうかもしれないと思ったからだ。 「シェラジムみたいになってもいいのか。暗殺なんか仄めかしたりして。そんなことしたら英雄どころか、死後まで罵られ辱められるんだぞ」 「そんなことにはならないって」  苦笑して、ギリスは明るく答えた。 「俺のはばれないから」  笑って言う彼の能天気を非難しようとしてから、スィグルは彼の言った言葉の意味を考えた。 「イェズラムのも、ばれなかったろ?」  シェラジムは暗殺を行った。彼は蛇の毒を使った。彼は治癒者で、人を殺めるための力を持たなかったからだ。 「お前の敵は、この先ずっと、いつのまにか心臓が止まっちゃうんだよ。お前が命じたわけじやない。自然にそうなるんだよ。お前は玉座で、にこにこしてりゃいいのさ。それで時々は、俺を部屋によんで、あいつはむかつくとか、我慢ならないとか、愚痴ってりゃいいんだって」  そうすれば、その相手を自分が片付けるから。そこまではギリスは言葉にしなかった。でも、彼がそういう意味で話していることは、スィグルにはよく分かった。 「エル・イェズラムは部族の英雄なんだよ」  心細くなって、スィグルは言った。イェズラムはいつも正々堂々として見えた。 「そうさ。俺もいつかそうなる。族長にとってのイェズラムのように」  寝ころんだまま伸びをして、ギリスはまたスィグルを抱き寄せようとした。それを拒みはしなかったが、スィグルは彼の腕の下で、なんとはなしに身を固くしていた。 「エル・イェズラムは、どうしてお前を僕のところに寄越したの」 「俺が長生きしそうだからじゃないか」  肘をついて頬を支え、ギリスはさも当たり前のように答えた。 「シェラジムは名誉を捨てて生きながらえたけど英雄になれなかった。失敗だった。イェズラムは英雄譚(ダージ)を選んで英雄になったが、治世の半ばで死んだ。でも俺はどうだろう。案外いい線行くんじゃないか」  無痛のエル・ギリスだからさ。いかにも面白そうに、ギリスは付け加えた。 「それでイェズは俺に、お前の兄(デン)になって、即位と治世を助けろって」  ギリスの指が、髪を撫でていた。掌中の玉を慈しむような仕草だった。その、どことなく淫靡な気配に、スィグルは胸苦しくなって、彼から顔をそむけた。ギリスは誘っていた。 「エル・イェズラムはそういう意味で言ったんじゃないんじゃない。父上とイェズラムのように、助け合えっていうだけのことだったんじゃないか」  ギリスが自分に憶えさせたことを考えると、スィグルは恥ずかしかった。そうでなければ、こうも簡単に、彼に操縦されたりしなかっただろうに。 「それにしたって、同じことだろ」  にっこりと微笑んで、ギリスは逃げようとするスィグルの顎をくすぐった。 「お前の親父はイェズの弟(ジョット)なんだから」  唇を合わせるギリスの目と、スィグルは目を伏せずに間近で見つめ合った。色の薄い、ほとんど灰色に見えるギリスの目の中で、蛇のような瞳だけが際だっていた。 「イェズラムの肖像はダロワージに飾らせる。誰がこの宮廷に君臨していたか、よくわかるように」  スィグルの後れ毛を耳にかけてやり、ギリスはまた微笑んだ。無垢な顔だった。 「俺のこと好きか、スィグル」  好きだった。 「どれくらい」  いつも聞くことを、ギリスはまた尋ねた。 「怖いくらい」  答えながら、スィグルは思った。  彼はいつも確かめる。言葉にさせて、自分の気持ちを。  だが、こちらからは彼の気持ちを尋ねたことはない。本当に一度もなかった。彼が自分を好きだということを、疑ったことがなかったからだ。  その事実を言葉にして聞かされなくても、傍にいれば分かる。彼の接吻が自分に与える、途方もない陶酔。それは愛の味だと、いつも信じていた。彼を失うことを思うと、足が震えそうだった。 「昼寝してる絵でいいんだ、スィグル。そのほうがイェズラムらしいだろ」  言外にある強引さを、スィグルは感じた。  ギリスの額を見ると、ほとんど白に近い、氷の結晶のような石が生えていた。  彼は紛れもなく竜の涙だった。王朝に飼われ、王朝を飼う者たちだ。  命をかけて編んだ英雄譚(ダージ)で宮廷を酔わす。 「ギリスはどうして、自分の馬に目隠しをするの」  自分を抱く、ギリスの胸に甘えて、スィグルは彼に尋ねた。彼の数少ない英雄譚(ダージ)の中で、ギリスはいつも軍馬に目隠しをさせていた。巨大な守護生物(トゥラシェ)が守る敵陣に突撃するときに、馬がたじろいで出遅れないようにだ。 「馬が恐れぬように、さ」  詩人たちの言葉を借りて、ギリスは答えた。  そして彼は、暖かい手で、スィグルの両目をやんわりと塞いだ。 「今夜はお前にもしてやろうか。俺の部屋に来いよ」  甘い声で英雄が誘っていた。  スィグルは返事をしなかった。  答える必要はない。  自分はきっと行く。そのつもりがなくても。  英雄が手綱をとれば、目隠しされた馬が抗わぬように。 「心配するな。継承争いで死んだりしない。お前を殺そうとするやつは、俺が許さない」  ギリスが自分に目隠しをしてくれていて良かったと、スィグルは思った。彼がどんな顔でその言葉を言ったか、見たくなかったからだ。  玉座の間(ダロワージ)には結局、スィグルが子供のころに書いた手慰みの絵のイェズラムが飾られた。スィグルが新しい絵を描くことを拒んだからだった。  広間を飾るには小さすぎるその絵は、額に入れられ、特に目立つでもない壁を選んで掛けられた。  絵の中で、のんびりと昼寝をしているエル・イェズラムは、質素な普段着を着ており、本当にくつろいで見えた。 「いい絵だ」  何度目ともつかない賞賛の言葉を、スィグルの背後にいる長老会の竜の涙たちは口々に言い交わしている。彼らはもうじき死ぬ者たちだった。父と共に戦い、英雄譚(ダージ)とともに肥やした石によって、殺されようとしている。 「新しいのを描いてくれればよかったのに」  ギリスが隣でどこか拗ねたように文句を言った。彼はスィグルの手を握って立っていた。 「まあ、よいではないか、これで十分だ」  自分たちを取り囲む大人たちの長身が、手をつないで立つ姿を、広間(ダロワージ)の衆目から隠していた。 「ギリス」  小声で呼びかけ、スィグルは彼に、自分を見るよう促した。  表情の乏しい真顔で、ギリスはうつむき、スィグルの目をじっと見つめた。 「僕のこと好き?」  子供の内緒話のような囁き声で、スィグルは尋ねてみた。面白そうに、ギリスは笑みを浮かべた。  彼の目が、嘘偽りのない愛で、自分を見つめているのを、スィグルは確かめた。  ギリスは正装のための豪奢な耳飾りの揺れるスィグルの耳に唇を寄せ、やはり囁くように、好きだと答えた。その甘い声に、スィグルは目を伏せた。  彼が自分を見る目にあるのが、本物の愛だからこそ、彼は刺客なのだ。  今さら、誰の目をはばかることがあろう。  咎めもしない視線で、竜の涙の長老たちが、手を握り合って立つ新しい世代を見下ろしている。 「エル・イェズラムか」  突然呼びかけられた声に驚き、スィグルは振り返った。  大人たちが、軽い黙礼とともに、現れた者に絵の前の場所をあけた。  そこに立っている父に、スィグルは動揺して、ギリスの手を振り払おうとした。しかし彼はそれを許さず、強い力でスィグルの指を握り返してきた。  父はどこか皮肉な目で、壁に掛けられた亡きものの肖像を眺めていて、そのことに気づかない。 「死してなお、俺の広間(ダロワージ)で昼寝をするとは、さすがは我が英雄よ」  冗談を言う父に、居合わせた者たちは笑い声をたてた。ギリスは笑わなかった。彼には冗談が分からないからだ。スィグルも、皆が笑っているその話を、少しも可笑しいと思えなかった。  はじめて気づいたように、ふと父の目がこちらを見た。  スィグルはふさわしい一礼をするべきだと思ったが、ギリスが手を握っているせいで、その所作は不自然だった。  父はそれを微笑ましげに見下ろすだけで、咎めはしなかった。 「なるほどな」  スィグルではなく、長老会の者たちの顔を見て、父リューズは独り言のように呟いた。  父が察したであろう、諸々のことを思って、スィグルは目を閉じた。恐れる馬を励ますように、ギリスの手がさらに強く自分の手を握り返すのを感じながら。 「イェズラム」  父はきゅうに、親しげな口調で絵に呼びかけた。 「それで俺に、勝ったつもりか?」  笑って罵る父の皮肉な軽口に、絵の中の英雄は狸寝入りをしていた。  一瞥を残して立ち去る父と、その取り巻きの者たちの後ろ姿を、スィグルは黙って見送った。その姿が正装した人々の群れに隠れて見えなくなったころ、スィグルは自分の足がきゅうに震え始めたのを感じた。  宮廷の、大きな渦のなかにいる。  これまで、父が唯一の中心であったその渦の中に、自分は新たな小さい渦を起こそうとしている。それを意図したのが誰か、語られることが永遠になくても、とにかく始まろうとしている。  英雄は、うとうとと微睡みながら、広間(ダロワージ)で繰り広げられる物事を、これからも見守っているのだろう。自分が見込んだ新しい星が、昇るのを。  その星は、凍り付くように鋭く輝くに違いない。 「ギリス、ずっと一緒に歩いてくれるか」  そうに違いないと信じながら、スィグルは確かめた。それを言葉にしてほしかったからだ。  もちろんだ、と答えるように、ギリスはあの微笑みを浮かべた。底抜けに明るい、幸福そのものの笑み。そして彼は秘密めかして囁いた。 「心配するな。俺たち、兄(デン)と弟(ジョット)だろ」  その甘い毒が、ゆっくりと効いてくるのを、スィグルは目を閉じて恐れずに待った。彼は自分のための英雄で、恐れることはなかった。命をかけて、彼は守ってくれるだろう。今や一心同体となった新星を、まさに自分の一部として、永遠に愛し続けるだろう。生きている時はもちろん、死んだ後になっても。  彼がそうだったように。  目を開いて、スィグルは額の中の男を見やった。  英雄はそこで、人知れず君臨していた。宮廷に、玉座に、あるいは思い出の中に。  《完》 ----------------------------------------------------------------------- 習作「壁の中の男」 -----------------------------------------------------------------------  部屋の外でギリスと会うのは久しぶりだった。  人気のない回廊の突き当たりに、ギリスはスィグルを連れてきた。  王宮の通路は複雑に入り組んでおり、古い時代に作られたまま放置された行き止まりや、おかしな繋がりになっている場所が幾つもある。  入ったと思ったらすぐに元の道に戻ってくるような、意味のわからない脇道や、延々と続いた上、なにもないまま終わる細い行き止まりの通路もあった。掘り進む途中で挫折したものか、あるいは以前はそこに何かが建設されたが、壁を埋めて廃棄されたもののように見えたが、真相はわからない。  この道も、懸命に掘り進んだ蟻が途中で息絶えた巣穴のように、長く続いて、ぱったりと終わっている、細長い虚(うろ)だった。行き当たった場所には飾り棚が作られてあり、そこには申し訳のように香炉が飾ってあった。  炉の香木は絶え果てていて、通路は薄暗く、あたりは埃っぽかった。 「ここ、なに?」  正体を知った上でギリスが連れてきたような気がして、スィグルは尋ねてみた。 「ここがそうなんじゃないかと思うんだ」 「そうって、何が」  要領を得ないギリスの話にむっとしながら、スィグルは重ねて訊いた。 「物語に出てきた、例の埋められた男」  そう言われてみて、スィグルはぎょっとして壁をもう一度見た。  一段引っ込んだ飾り棚の壁の、人の頭の高さあたりに、金属の管の端がぽっかりと突き出している。装飾にしては地味なそれは、途切れた配管のように見えた。  それに気づいてから、スィグルはすぐ後ろに立っているギリスを振り仰いだ。 「お前が読んでた怪談のことか」  ギリスは笑って、小さく頷いた。  夜中に部屋に行くと、ギリスは大抵そこにいて、寝床で本を読んでいた。いつ訪れても、まったく同じ本を読んでいるので、それは読むというより眺めていると言ったほうが正しいのかもしれなかった。  読み古されたふうな小振りの革表紙の本の中身は、他愛もない怪談で、王宮を舞台にした古い物語が記されていた。  ギリスは子供のころから、それを繰り返し読んでいるのだという。  彼の仲間内の、皆が怖いというその物語を、幼いギリスは怖いと感じられなかった。怖いというのが、どういうものか、なんとしても知りたくて、日々繰り返し読み続けたのだという。  しかし結局分からなかった。 「悪趣味だな。どうして僕をこんなところに連れてくるんだよ」  すでに怖くなって、スィグルはそれを振り払おうと、怒ったふりをしてみせた。ギリスが自分を怖がらせたくて連れてきたのだろうと思った。 「怖いのかなあと思って」  案の定な答えを真顔で口にするギリスに、スィグルは心底腹が立った。  その物語は、王族の姫と、工人の男の恋愛ものだった。  姫は地方候の妻として嫁ぐことが幼少のころから決まっている身の上だった。  ある時、壁を塗る工人だった男は、姫君の部屋に新しい壁を塗るためにやってきた。  壁を塗っている男の後ろ姿に姫はたちまち恋をし、男は自分の背を見る姫にたちまち恋をした。  壁はなかなか仕上がらず、男と姫は身分違いの逢瀬に身を投じる。  やがそれは族長である姫の父の知るところとなり、工人の男は罰を受けることになった。姫は婚約しており、男は姦通の罪を犯したからだった。  嘆き悲しむ姫は、男の命乞いをした。しかし族長は聞き入れなかった。  男の口に管をくわえさせ、そのまま壁に塗り込めさせた。男に息をさせ、すぐには死なないようにするためだった。  姫は男のもとに通い、管から水を飲ませ、ものを食わせて養い続けた。  姫が壁を叩いて呼びかけると、男は愛しい姫様と答えた。  一年が過ぎ、十年が過ぎても、男は答え続けた。  その声が絶えたら、自ら死のうと覚悟していた姫は、いつまでも生きながらえることになった。  歳月が過ぎ、姫は年老いて老婆となった。  生きては今宵を超えられまいと悟った姫は、いつものように男のもとへ行き、いつものように壁を叩いた。  男は答えた。愛しい姫様、と。  わたくしはもう今宵、儚くなってしまうと思います。あなたをどうすればよいでしょう。  姫が尋ねると、男は答えた。  私は死霊です。ずっと先から死んでおり、あなたにお会いしたい一心で、こうして留まっていたのです。今こそ私のもとにお越しください。あなたの美しい顔が見たい。  それを聞いた姫は、愕然とする。長い年月が流れ去っていた。美しかった肌は衰え、黒髪は白く枯れ果てていた。しかし男の声は壁の中に消えた、あの日のままだった。  姫は立ち去り、婚約していた男のもとに嫁いだ。  今でもその壁を叩くと、男は答えるという。愛しい姫様、どこへ行ってしまわれたのですか、と。  スィグルは寝床でギリスの本を借りて読み、その物語が恐ろしかった。だいたい些細な物音ですら、スィグルには恐ろしかった。子供のころから臆病なのだ。  悪さをすると、報復のために、侍女たちは怖い物語をスィグルに読んできかせた。どんなお仕置きよりも、それが一番効くからだった。  怖ければ聞かねばいいだけの話だが、最後まで聞かないと、もっと恐ろしい想像をしてしまう。結局いつも大人しく終わりまで聞き、寝入りばなになるころには、胸の中でふくらみきった恐怖に悶える羽目になった。 「壁、叩いてみる?」  からかっているのか、本気なのか分からない真顔で、ギリスがスィグルに尋ねた。 「叩くわけないよ。あんな話は作り事なんだから。第一、いろいろ変だろ。後宮に住んでいる姫のところに、どうして男がのこのこやって来られるのかさ。工人が貴人の目の前で壁を塗ったりするか? 百歩譲ってそうだったとしてもだよ、死霊なんかいるわけないし、姫は密通した男を壁籠めにされて頭がいかれたんだよ。そんな女がだよ、もう死ぬっていうような年になってから結婚するなんて、おかしいだろ。今夜死ぬって言っておきながら、引き続き生きてたり、矛盾だらけだ。できの悪い話だよ」  早口で一気にまくしたててから、スィグルは後悔した。もっとゆっくり話さないと、ギリスは途中で飽きて聞くのをやめてしまう。二度手間だった。 「叩いてみろよ」  スィグルの手をつかんで、ギリスは目の前にある壁を叩かせようとした。 「やめてよ。僕はそんなことしたくないから」  ありえないと思っていても、スィグルには管の突き出た壁が気味悪く、触るのもいやだった。必死で抵抗して、壁から逃れようとしたが、ギリスは執拗だった。  やがて争ううち、スィグルの手がごつんと壁を打った。古い漆喰の細かくざらつく感触がした。  あまりの気持ち悪さに、スィグルは息を呑んだ。  身をこわばらせるスィグルの背を、壁を見つめるギリスが強く抱き留めていた。  死霊は答えなかった。  そんなものはいないからだ。 「……怖い?」  耳元に、ギリスが尋ねてきた。  スィグルは怒りに呻いた。 「怖くなんかないよ」  汗染みた自分の顔が紅潮しているのではないかと、スィグルは思った。嘘をついていた。本当は怖くてたまらなかった。ギリスの抱擁を振り払いたいところだが、誇りがそう命じても、臆病心が、しばらくこうしていようよと答えた。 「なあんだ」  がっかりしたように言うギリスは、また壁を見た。 「女じゃなきゃだめなのかな」 「お前……死霊がいると思ってるのか」 「いるかもしれないじゃん」 「いないよ、そんなもん。もしいたら、世の中は死霊だらけになっちゃうよ。この壁だって、ただの無計画な工事の結果で、この管はなにかの配管のあとなんだよ」 「お前いま必死だな。怖いんだろ」  うらやましそうに、ギリスは言った。  スィグルは情けなくて泣きそうになった。  ギリスには恐怖が分からないらしい。その自分から欠けた感覚に魅力を感じるらしく、他人が恐怖するのを見ると、ギリスはいつも喜んだ。そして、怖いというのは、どういう感じだと聞くのだ。ギリスの性格からして、ほんとうに知りたくて聞いているのだろうが、悪趣味な男だった。  こちらが臆病者と知って、ギリスは時々、いかにも嬉しそうに仕入れてきた王宮の怪談を聞かせてくれる。意地を張って平気なふりで聞くが、スィグルはだいたい毎度寝付けなくなっていた。  子供だましの話の、どこが怖いのかと自分でも不思議だが、とにかく怖いものは怖い。  だからといって、ギリスのところに泊まるのは癪だし、そういう時にはあわてて自室に戻り、弟に縋り付いて寝た。 「その死霊は、悪霊になっていて、別れさせようとするって」  人から聞いたらしい話を、ギリスはしていた。 「なにを」  スィグルは耳を塞ぎたかったが、ギリスがいまだに手を押さえていたし、そもそも聞きたくないと言うのも恥ずかしかった。 「恋人を」 「仲良くしてる他の連中を死霊がやっかんで、関係を壊そうとするってこと?」 「うん」  スィグルは横目に、自分を抱くギリスの顔を振り返ってみた。  すぐ近くで、ギリスの凍るような淡い色合いの目が、こちらを見つめ返した。 「俺たちも壊されたらどうしようか」 「だったらなんで来るんだよ。馬鹿かお前は」 「大丈夫だよ、死霊が来たら俺が戦うから」 「もう死んでるやつに、お前の氷結の魔法が効くと思ってるのか?」 「効かないかな」  効くと思っていたのか、ギリスは意外そうに答えている。スィグルは呆れて渋面になった。それを見て、ギリスは笑った。 「寓話だろ。本当の話じゃないから、壁を怖がる必要ないさ、愛しい姫様」 「わかってるなら、初めからこんな話しないでくれよ」  ギリスにそんな頭があるとは、スィグルは思っていなかった。文学が理解できるとは思いも寄らなかったのだ。不完全な感情しかないものが、文学の語る情緒に共感できるとは思えない。 「どうして姫は壁の中の男を生かしておこうなんて思ったんだろう。毒でも飲ませて殺してやったほうが親切じゃないか、どうせ助からないなら」  スィグルの苦情が聞こえなかったのか、ギリスは壁に目をやって、そんなことを言った。 「女の身勝手だろう。そういう話なんだよ」  スィグルが教えてやると、ギリスは少しの間、考え込むふうだった。やがて彼は、のんびりと口をひらいた。 「王族の身勝手だろ」  同じ物を読んでも、解釈は人それぞれだ。それについてギリスと争う気はスィグルは無かった。 「ギリス……お前、なにか僕に言いたいことがあって、ここに連れてきたのか」  そう尋ねると、ギリスは不思議そうな顔をした。なにを言われているのか分からないという表情だった。 「喜ぶかと思って」 「喜ぶわけないだろ、こんな薄気味悪い埃だらけのところ」  それを聞いて、ギリスは意地悪く胸を震わせて笑った。喜ぶのは自分だろと、スィグルは内心でギリスを罵った。  嬉しそうにスィグルを自分のほうに向かせ、ギリスは口付けしようとして、不意にやめた。いつにないお預けを食って、スィグルは眉を寄せた。 「……なんだよ」 「やめとく。人前でしないほうがいいから」  香炉の飾られた壁を見やって、ギリスは体を離した。そして彼は、その壁の中にいる男を、見ているような目をした。 「そういうのやめてよ。ほんとにやめてくれよ。僕はもう帰らなきゃらないから行くよ、用事があるから」  思わず喚いて、スィグルは細い通路を引き返そうとした。 「晩餐まで暇なんだと思ったのに。そんなこと先に言えよ。知ってたらこんなとこ来なかったのに。ただでさえ最近お前は捕まらないんだからさあ」  壁にもたれて、ギリスは言葉の割に、のんびりと受け入れたふうな口調で文句を言っている。それを無視してつかつか歩いていったものの、スィグルは湾曲した通路のせいで彼の姿が見えなくなったのに気付いて、急に歩けなくなった。  ギリスは追ってくる気配がなかった。  声の残響も絶えた薄暗い通路の中で、スィグルは拳を握って立ちつくした。 「ギリス……いっしょに帰ってよ」  恥ずかしかったが、怖じ気に耐えられず、スィグルはまた来た道を戻っていった。そのまま駆け寄ろうとして、スィグルはぎくりと足止めされた。  ギリスが香炉の飾り棚に膝をかけて、壁から突き出た管の中をのぞき込んでいたのだ。 「やめなよギリス!」  叫ぶスィグルの顔を、ギリスはびっくりした顔で振り向いた。それから彼は、にやりと笑った。 「ここ、ほんとに誰か入ってるみたいだ」  嘘だ。嘘に決まってる。そう思ったが、ギリスがあまりに嬉しそうに言うので、スィグルは怖くなって、考える間もなく通路を走り去った。  愛しい姫様、どこへ行ってしまわれたのですか、と、ふざけて呼びかける声が幻のように追いすがってきたが、スィグルは振り返らなかった。  一緒に行くと分かると、スフィルは手をつないで歩きたがった。  小さな子供の頃にそうしていたのを、弟はすっかり気が触れた今でも、憶えているらしかった。  晩餐のために正装したスィグルは、外歩きしてもよい程度に身なりを整えられた弟と、やむをえず手を繋いで王宮の廊下を歩いた。  弟は父である族長の部屋に行くのだった。いつもそうして食事をもらっているのだ。  繋いだ手をぶらぶら振りながら、子供のように歩いていくスフィルは上機嫌で、自分とそっくりな顔に、満足げな微笑を浮かべている。  しかしスィグルは緊張していた。  父と会うときは、いつも背中に汗が滲んだ。玉座の間の、公式の空気がふたりの間を隔てている時には、その緊張は微かなものだったが、スフィルとともに父の部屋を訪れて、普段着の族長と向き合うと、スィグルは喉が渇いて声も枯れそうだった。  それでも話がある。行かねばならない。  機嫌がいいせいで踊るような早足のスフィルに手を引かれて、スィグルは小走りになった。侍女たちが少し遅れて追ってくる。  そういう姿を、スィグルは恥だと思ったが、父は気にせず、スフィルを歩いて部屋に来させていた。陰であからさまに嘲る者もいたが、父はそれを放置していた。  手をつないで、幸福そうに歩いている弟の姿を見ると、スィグルはいたたまれなかった。たぶん自分も、こんな顔をしていたのだろう。ギリスに手を引かれて走り回っていた時には。  辿り着いた扉を、無造作に押し開いて、スフィルは一礼もせずに中に走っていった。控えの間を抜け、あとを追っていくと、近頃また時折訪れていた父の居室が広がっている。  父はここに一人で寝起きしていた。  後宮には父の妻が、病身の母を含めて、ちょうど十人いたし、その気になれば情けをかける相手はいくらでもいた。しかし父が今も後宮の戸をくぐるのかどうか、スィグルは知らなかった。  自分たち双子がまだ幼く、後宮の母の居室で暮らしていたころには、父はまだ時折母のもとを訪れていた。そのころ自分は自惚れた子供で、父は母ではなく自分たちに会いに来ているのだと信じていた。大人には大人の用事があるとは、想像すらしていなかったからだ。  族長である父に対してとるべき儀礼のため、スィグルは戸口で跪き、頭をさげた。そして顔を上げると、部屋の奥にある主人のための座に父が座っており、その膝元にスフィルが腰をおろして、胡座した父の膝に頬杖をついていた。  仲睦まじく寛いだふうな二人の姿に、とても入っていけないものを感じて、スィグルはその場に釘付けになっていた。その姿を眺め、少しの間待ってから、父は指をあげて差し招いた。  近くへ寄れという意味だと悟って、スィグルはもう一度、浅い一礼をし、二人の傍まで歩み寄った。これ以上は寄れないというところまで歩いたつもりだったが、父の座る絹の円座まで、あと数歩の距離が残されていた。  スィグルはその場に膝をついた。 「父上」  呼びかけようとした同じ言葉を、唐突にスフィルが発した。そちらに気をとられて、父リューズは弟の顔を見た。 「おなかすいた」  空腹を訴える弟の声は、幼子が甘えているようだった。父は弟に笑いかけ、ちょうど侍女が運んできた銀の皿に盛られていたものを、スフィルの口に入れてやった。  生の肉だった。  スィグルはそれから目を背けたくて、床の絨毯の文様に目を落とした。 「お前が先日寄越したものは読んでおいた」  旺盛な食欲で肉を貪っている弟の頭を撫でてやりながら、父はこちらに話を向けてきた。  スィグルはやっと、父の金色の眼とまともに向き合うことができた。  トルレッキオから帰郷した自分を、父は温かく迎え入れてくれたが、昔ほかの兄弟たちと父の興味を争ったようには、スィグルは素直に父の注目を勝ち取ろうという気になれなかった。なぜかこの身が恥ずかしくてたまらず、弟を可愛がる父の姿を見るに堪えなくて、卑屈に引っ込んで過ごしてきたのだ。  それをまた、弟に便乗して父の部屋を訪れてみようと思いきったのは、玉座の間(ダロワージ)に自分が描いたエル・イェズラムの絵が飾られた時以来だった。  あの時、自分と父を繋いでいた絆が、他の者の手によって勢いよく断ち切られたような気がした。気のせいだったかもしれないが、とにかくそれが耐え難く、すぐに父と会って弁解をしなければという、火のような焦りを覚えた。  その夜、食事のために部屋を出て行くスフィルに、話しかけても無駄だと理解しているはずが、ついていってもいいかと尋ねていた。スフィルはもちろん、いやだとも、いいとも言いはしなかったが、上機嫌に部屋を出て行った。それをとぼとぼ追って現れたスィグルに、父は一時目を見張ったが、結局、久々に現れた事については、なにも言わなかった。  あの時も、今と変わらず弟に肉を貪らせながら、父は穏やかに、お前は好き嫌いが多すぎるのではないかと尋ねてきた。  取り巻きの者に、自分の膳から欲しいままに食わせているようだが、それではいずれ自分の腹を満たす分がなくなってしまうのだぞ。  父がエル・ギリスのことを揶揄しているのは、分かり切ったことだった。  あいつはやたらと腹の空く質のようで、小食で偏食の自分が手をつけないものは、代わって腹に収めていた。それが玉座からも見えているのだろう。  しかし父が言っているのは、食事のことだけではない。お前は長老会に蹂躙されているが、そのままでは駄目だと父は言っているのだ。  その通りだった。  お前はやっと自由の身になったが、これからどうやって生きていくつもりだ。また囚われて生きていきたいのか。なにか、したいことはないのか。  優しい声で諭す父の言葉は、それでも容赦なく響いた。のんびり話している時間は父にはなく、スフィルが銀の皿から肉を全て平らげたら、話は終わるのだった。なにか父が気に入るような答えを返さなければと、スィグルは内心震えながら考えていた。  その時、不意に頭に浮かんだのは、かつて父から拝領した領地のことだった。グラナダという小都市で、スィグルはその街を気に入っていた。  こちらを見つめる父に、スィグルは思いつくまま話した。自分は、トルレッキオの学院で見たような、継承者を鍛えるための小宮廷を、グラナダで試してみたいと話していた。そんなことを考えたことは、父の部屋に来るまで、実際には一度もなかったくせに。まったくの思いつきであり、全てがその場での苦し紛れのでっちあげのように、自分では思えた。  ほとんど嘘のようなその話は、異常なまでに滑らかにスィグルの舌を動かし、聞き終えた父は面白そうに、ふんと笑い声をたてた。  では、やってみるがいいと、父は許した。  その瞬間、スィグルは自分がなにを許されたのか、実のところ全く思い出せなかった。緊張のあまり、頭が真っ白なまま、全てを舌に任せて話をさせていたせいだ。  許されてみても、スィグルはまだ震えていた。  肉をあらかた平らげて、腹が満ちたらしい弟が、最後の仕上げというように、父の腰に抱きついた。その体を抱き返す父の姿を見て、スィグルは自分にも同じように、父が抱擁を与えてくれないだろうかと願った。昔は自分たち双子を分け隔てしなかった父が、今ではスフィルばかりを可愛がっているように思えた。  しかし、こうして外から二人を眺めていると、もう子供とは言えない年頃になった息子と父が抱き合っている姿は、どこか滑稽だった。幼髪のころなら知らず、大人のように髪を伸ばし始めた息子は、父親とは距離をおくものだ。  スフィルは、まともではないと哀れんでいるから、父はそうしているのだ。父が自分に同じことをしないのは、まともな息子だから。そう結論づけようとして、うまく呑み込めず、スィグルは苦しかった。 「博士たちと随分話し合ったそうだな。いい心がけだ。お前は聡明なようだから、俺も鼻が高い」  父が誉める声を聞いて、スィグルははっとし、顔を上げた。  父はスィグルが提出しておいた計画書の束を、こちらに放って寄越した。 「上手くいくかどうか、誰もやったことがないのだから、試しにやってみるといい。失敗したら戻ればいい。若いうちの失敗は恥ではない。成功すれば、お前の功績になるだろう」  分厚い紙の束を受け取って、スィグルはただ頷いた。失敗してもいいと言う父の言葉が、スィグルには恥に感じられた。父は必ず成功するとは信じてくれていないのだ。 「うまくいくよう努力します」  答えると、父はくだけたふうに頷いただけだった。  スフィルは今日の肉を平らげようとしていた。 「ところで」  傍に供されていた杯から飲んで、父は話を変えたふうだった。 「長老会が、イェズラムを記念して、やつの祝日を作れと求めてきた」  知らない話だったので、スィグルはぽかんとして、父の語るのを聞いた。 「お前はどう思う」  意見を求められているのだという事は分かったが、スィグルはしばらく、ぽかんとしたままだった。父に治世についての意見を求められたことなど、今までにはなかった。強い独裁によって部族を治めている父が、誰かに相談をするということ自体、スィグルにはこれまで想像もつかなかった。  やがて答えねばと気付いて、スィグルは膝をついたまま、焦って小さく身じろぎした。 「……いい考えのように思います。エル・イェズラムは民からも英雄として慕われていましたし、父上の王朝の建設に大きな功労のあった人ですから、それを讃えて祝日を制定されれば、民は父上が廷臣を大切にしていることを知るでしょう」  緊張した小声でぼそぼそと答えると、リューズは可笑しそうに笑った。 「あいつが廷臣という面(つら)だったか」  冗談めかして言う父の率直な口調に、スィグルは圧倒された。 「いつも偉そうにふんぞり返って、俺の株を奪ってばかりいたではないか。本当に腹の立つやつだった。やっと死んで無害な英雄になったと思ったら、こんどは祝日を作れだと。とんだ大英雄気取りだな」  悪し様に言う父の言葉に、スィグルは自分が不正解の答えを返したのではないかと思った。反対すべきだったのではないか。父はそれを期待して尋ねていたのではないか。  スィグルは微かな相づちさえ打てず、押し黙って父の前に座っていた。 「お前には違和感はないのだな。イェズラムを記念する祝日があっても」 「わかりません……」  答えに窮して、スィグルは蚊の鳴くように答えた。 「どっちなのだ。さっきは良い考えだと答えたのに、気が変わったのか」 「父上の御意のままに」 「では、お前が決めろと命じればいいか。俺はどうでもいいのだ、イェズラムの祝日など。あってもよいが、なくても構わん。とにかく死んだ、もうなんの助けにもならん。祝日が欲しいという者が多いなら、作るがいい。俺にとっては、あいつはそのような歴史上の人物ではない。あいつの中に英雄性を求める民の気分は、俺にはわからん」  一気にそう言って、リューズは長い息を吐いた。  父は微かに苛立っているようだったが、平気そうにしていた。  スィグルは呆然と父を見ながら、静かに悟った。この人は悲しいのだ。  その当たり前の事実に、スィグルは驚き、そして全身を固く強ばらせていた緊張が、ゆっくりと退くのを感じた。  父は悲しみ、困って、自分を頼っているのだ。そのことはスィグルには未だかつて無いほどの激しい喜びだった。父を支えて、役に立ちたかった。 「父上の御代に、稀代の大英雄がいても、いいのではないですか。皆も喜びますし。エル・イェズラムが実際どのようなお人柄だったかは、この際関係がないと思います。父上しかご存じないことですから」  スィグルが意見すると、リューズはそれを黙って興味深げに聞いていた。 「そう思うか」 「そう思います」  確かめる父に、スィグルは頷いた。  すると父は、背後から命令書らしき豪奢な紙切れをとって、床の上で走り書きのように署名をし、朱色あざやかに印璽(いんじ)まで捺した。 「では決まりだ。どうせだから連休の初日にして民を長く休ませてやろう。皆、末永くイェズラムに感謝するだろう。これで何と五連休だからな」  やつの英雄譚(ダージ)が忘れ去られても、五連休の初日の男として永遠に記憶されるだろうと、父は話をしめくくった。  笑いたかったが、笑っていいかどうか分からず、スィグルがもじもじしていると、こちらを見た父が、にっこりと微笑んだ。族長冠に似合わず、無邪気な笑顔だった。それにつられて、スィグルも笑うことができた。 「小宮廷につれていく竜の涙を選んできたか」 「エル・ギリスを」  急に訊かれて、スィグルはとっさにそれだけ答えた。父はにやりと笑った。 「あまり重用しすぎて、将来、六連休の初日の男にしなくてすむよう気をつけろ。休みが長すぎても民がぼけるからな。支配するのは王族で、長老会ではない。時々はそれを、思い知らせてやれ」 「父上はどうやって思い知らせたのですか」 「ああ……」  族長冠ごと髪をなでつけて、リューズは答えた。 「壁籠めにしてみたりだな」  さらりと言う父の話に、スィグルは例の怪談を思い出した。  姫は嘆き悲しみ、男の命乞いをした。しかし族長は聞き入れなかった。  男の口に管をくわえさせ、そのまま壁に塗り込めさせた。男に息をさせ、すぐには死なないようにするためだった。  姫は男のもとに通い、管から水を飲ませ、ものを食わせて養い続けた。  姫が壁を叩いて呼びかけると、男は愛しい姫様と答えた。 「脅すだけでいい。本当にやったら死ぬからな」  王族の身勝手だろ。  そう言っていたギリスの声が蘇る。  その解釈を、ギリスに教えた者がいたのではないだろうか。子供のころのギリスが、延々と読み続ける怪談に、ひとつの読解法を示した大人が。 「父上は、なぜそんなことをなさったんですか」 「なぜ? イェズラムが兄上の妻と姦通したからだ。姦通した者は壁籠めの刑に処するのが古来からの習いだった。単にそれだけだ」  あえて尋ねはしなかったが、やっぱりエル・イェズラムの話なのか。スィグルは近々彼を記念する祝日ができるという大英雄のことを思い返した。 「濡れ衣だったのだがな」 「濡れ衣だったのですか」  驚愕してスィグルがほとんど叫ぶように聞き返すと、父は楽しげに声をあげて笑った。 「処刑用の壁が今でも残っているはずだぞ。俺が記念に残させたからな。どこだったかな……曲がった細い通路の先で、香炉が飾ってあるはずだ」 「その話は、秘密なのですよね、父上」  スィグルが確かめると、リューズは不思議そうに首をかしげた。 「いいや。当時の宮廷にいた者は誰でも知っている。公開処刑だったからな」  なんという恥だ。スィグルはまた呆然とした。  皆の知る前で、そこまで辱められたら、並みの者なら耐え難い。本当に罪を犯したならやむを得ないだろうが、濡れ衣だったというのだから。  エル・イェズラムはよく平気な顔で父に仕え続けたものだ。 「そこまでやっても、イェズラムは死ぬまで俺に仕えたのだから、お前も王族らしく強気でいけ。竜の涙というのはな、甘い顔をすると果てしなく付け上がる連中なのだ。よく働いた時に、ちょっと誉めてやる程度がいいのだ。わかったか?」  それは強気という範疇を越えているのではないか。そう思えたが、納得したかどうか尋ねる父の言葉に、スィグルはほとんど操られるように頷いていた。  ギリスがのぞき込んでいた管の中のことを、スィグルは考えた。なにかがいるような気がすると、ギリスは言っていた。  それはお前の後見人だ。  スィグルは薄気味悪さを呑み込んで、内心にそう独りごちた。  朝儀で宣下があった。  グラナダに離宮の建設を行うため、宮廷から選んだ者たちを派遣するとのことだった。族長が指名するのは、スィグルが前もって希望を出した者たちのはずだった。自分自身も含めて。  離宮の建設の総指揮権を与えられて、スィグルは玉座の前で、グラナダ領主として族長を跪拝し、深々と叩頭した。  高座から見下ろす父はにこやかだったが、部屋でスフィルに肉をやっているときとは全く違う表情をしていた。  各部署から選んだのは、宮廷では半端物と思われているような者ばかりだった。余り物をもらっていくなら父に申し訳もたつし、宮廷から問題児を掃除していくスィグルの小宮廷を羨む者もそうそういなかった。  竜の涙の問題児の名が呼ばれて、氷結の魔導師が自分の隣に跪くのを、スィグルは横目に眺めた。深く叩頭するギリスの姿は、そうして黙っていれば凛々しく見えた。  ギリスを選んだのは、彼が問題児だからではない。  自分のための英雄だと思うからだ。今さら離れられない。  しかし今この場にいる誰もが、族長は悪童(ヴァン)・ギリスを厄介払いしたのだと信じているだろう。  彼を遣わした者たちの思惑も分かるが、玉座に座る者を操ろうとする力があるとしたら、それと同じ強さで釣り合う別の力によって、対抗すればいいだけだ。  なにも大人しく、彼らが期待するように、玉座の間(ダロワージ)で兄弟殺しに明け暮れている必要はない。そうして彼らを頼るうち、人形のような族長ができあがるに違いないのだから。  いったんタンジールを出て、彼らを振り切ることには意味があった。彼らは追ってはこられない。タンジールに囚われた奴隷のようなものだからだ。  奔放そうなギリスですら、タンジールを出るよう頼むと、必死で抵抗していた。  今は覚悟を決めたようだが、内心では面白くないはずだ。自分が優勢でいられるところで、これまで通り新星を支配していたいはずだ。  眺めたギリスの額ずく横顔は、空白のような無表情だった。  壁の絵からその姿を見守っているはずの英雄は、これを敗北と思っているだろうか。  おそらくそうは思うまい。  これは父と彼との代理戦争で、ずっと以前から勝ったり負けたりして続いてきたものだ。そしてこの先も続く。玉座と、竜の涙の間で取り交わされる、戯れあう二匹の蝶の、優雅な舞のようなものだ。どちらか片方が支配するだけの、つまらぬ関係であってはならない。 「もうひとつの小さな広間(ダロワージ)を守ってくれるか、我が英雄よ」  玉座の肘掛けに軽く頬杖をつき、赤い族長冠を帯びた父が、跪くギリスに尋ねた。深い叩頭から顔を上げ、ギリスは父の顔を見上げる。笑みもなにもない彼の真顔は、高座の灯を受けて白々と浮かび上がって見えた。 「命にかえましても」  答えて、再びギリスは額ずいた。  珍しくまともなことを言った悪童に、広間(ダロワージ)に笑いがさざめいた。  父もそれに目を細めたが、笑ったのではなかった。  次はどんな手で来るつもりなのだ。受けて立つぞ。父の目は、おそらくそう語りかけている。ここにはもういない、壁の中の男に。  死霊などいないと、ギリスには言ったが、もしかするとこの広間には、いるのかもしれない。スィグルは退出しながらそう思った。  私は死霊です。  怪談の中の男は、そう呼びかけてくる。  愛しい姫様。私は死霊です。あなたにお会いしたい一心で、こうして留まっていたのです。  珍しく着飾ったエル・ギリスの立ち姿を見つけ、スィグルは朝儀の続く広間(ダロワージ)の人の目のなかで、初めて彼と一対一で向き合って立った。 「英雄(エル)・ギリス」  部族の英雄にふさわしい儀礼で一礼をして、スィグルは彼の正式な名で呼びかけた。答礼をして、ギリスはこちらを見つめた。 「レイラス殿下」  彼が自分のことをそう呼ぶのも、初めてではないかとスィグルは思った。 「いつぞやお尋ねになった文学のことで、やっと答えが分かりましたので、ぜひお教えしたいのです」  慇懃に話しかけてくるスィグルに、ギリスはどこか面白そうな目をした。 「なぜ姫が壁の中の男を生かしておこうとしたか」  スィグルは微笑とともに彼に教えた。 「それは、愛していたからではないですか」  なにか答えようと、ギリスが唇を淡く開くのが見えた。しかし彼はしばらく黙っていた。スィグルは微笑んだまま、英雄の答えを待った。 「ああ、なるほど」  深く納得したふうに、ギリスは呟いた。 「でも、そうだとしたら、あの物語は、いったいどこが怖いのですか」  ギリスが宮廷人らしく喋ったので、スィグルは優雅に見える作り笑いを崩され、本当の笑みになった。ちゃんとまともに話せるんじゃないか。いったいどれだけ隠し球があるのやら。 「最後に姫が男を裏切るからです」  豪奢な王族のための宮廷衣装の袖の中で、自分の両手を組んだまま、スィグルは教えた。その話に、ギリスは静かに苦笑した。 「それは、たしかに、とても怖い」  囁くような声で感想を述べて、ギリスはスィグルに軽い一礼をした。そして彼は腕をのべて広間(ダロワージ)を出る扉をスィグルに示した。  広間にはまだ、常日頃の駆け引きをおこなう大人達が大勢いた。華麗な衣を着た林のように、そこかしこに立って話す人々の間を、ギリスは先導して進んだ。彼の作る道を歩いて、スィグルは広間を渡っていった。  大扉の輝く取っ手を掴み、ギリスが耳打ちしてきた。 「お前は俺を裏切るなよ」  真顔でいる彼の目を微笑んで見上げ、スィグルは答えた。 「さあ、どうだろう。それは約束できないな。物語の最後を、自分の目で確かめてくれ」  英雄に扉を開かせ、スィグルは父の広間(ダロワージ)を後にした。背後では、宮廷の時を打つ時計の鐘の音が、りんりんと鳴り響きはじめていた。 《完》 ----------------------------------------------------------------------- 習作「蜜月」 -----------------------------------------------------------------------  眠っているスィグルの横顔を、ギリスは指で描くようになぞった。枕の上で寝息を立てている鼻先に触れても、スィグルは目を醒ます気配もなく、深く昏々と眠っていた。  激情にまかせて果てもなく抱いたら、彼は疲れて眠ってしまったのだった。  愛とはそういうものだろう。とにかく深く抱き合って、相手を貪るものだろう。  そのように答えると、エル・イェズラムはいつも、可笑しそうに笑っていた。そして、若いうちにはそれで良かろうと言った。  正答ではないという意味だと、ギリスには判ったが、訊いても答えをもらえる訳ではなかった。  自分の頭で考えろと、イェズラムは言うに決まっている。生きているうちは考えろ、頭を使え、お前の頭は石に食わせるためにあるのではないのだぞ、と。  盆を引き寄せて、ギリスは養い親の形見の長煙管をとり、そこに葉を詰めた。火種に押しつけて浅く吸うと、冷たい匂いのする煙が口の中に広がった。  麻薬(アスラ)を吸うのを見て、スィグルは初め驚いた顔をしていた。無痛のエル・ギリスにはそんな悪習はないと信じていたのにと、咎めるような顔だった。  常習しているわけではないが、時々無性に吸いたくなった。  病床のイェズラムは、具合が悪いといつも、ギリスを枕辺に呼び寄せて、看病をさせた。苦しむ長老に、鎮痛のための麻薬(アスラ)を吸わせてやるため、ギリスはいつもこの長煙管に火を入れて、口元までもっていってやった。  発作的な激痛が治まるまでに、半日で済むことも、何日もかかることもあった。  その間、イェズラムは決まって良く喋った。  普段が沈黙がちだっただけに、その饒舌はどことなくおかしかった。  深い酔いのせいで、イェズラムの話は時折、ギリスには良く分からない内容になることもあった。そういう時、イェズラムは別の誰か、すでに過ぎ去った時代の中にいる者たちと口をきいているようだった。  紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)が効かなくなっても、イェズラムは自ら死のうとはしなかった。  族長は固く禁じていたが、世の中にはもっと良く効く葉っぱもあると、イェズラムは知っていた。  使ったことがばれると、族長に首を斬られるぞとギリスが言うと、イェズラムはいつも鼻で笑った。  それがどういう意味なのか、ギリスはいつも考えてみたが、良く分からなかった。  イェズのほうが族長より偉いから平気なのかと問うてみたこともある。それにもイェズは笑っていた。ただただ笑うばかりだった。  そういう時、強い麻薬(アスラ)のせいで、イェズはちょっと変なのだと、ギリスはやむなく納得していたものだった。  そんな姿を思い出すと、この長煙管の吐く煙が、むしょうに懐かしく思える。  なにか酔えるものが、自分にも欲しくて、誰かと寝たり、麻薬(アスラ)を試してみたりする。しかしそれは所詮、皆が喩えて言うように、一瞬の華だった。  満たされない飢えを感じて、ギリスは隣で眠っている弟(ジョット)を眺めた。うつぶせで眠っている白い体は、大人でも子供でもなかった。強引な腕で抱けば、その中にすっぽり収まってしまう。  揺り起こして、もう一戦交えようか。  ぼんやりと瞬きしながら、ギリスは眺めた。  スィグルは砂漠の逃げ水のような奴だった。喉が渇いて必死で追いかけても、そこには辿り着くことができない。毎日のように誘って思い通りにしても、ギリスはいつも空腹でいる自分を感じた。貪ったところで、霞を食っているようなものだ。  俯せのまま眠っているスィグルの裸の背に、ギリスは手をのばした。肩を覆う傷に触れると、治癒者たちが手を尽くしたが、どうしても消えないという、文字のような醜い傷が、いびつに指に感じられた。  王族などつまらない。  そう言うと、イェズラムはスィグルが人を食った話をしてくれた。暗闇の底で、守護生物(トゥラシェ)に追われる恐怖と飢えに狂い、人肉を食らって生き延びたのだという。  その話を聞いたとき、ギリスは自分の内奥で何かが震えるような気がした。  大罪だ。天使が許すまい。  ギリスのそんな感想に、イェズラムは笑い、今あの子は天使に赦しを乞いに行っているから、もしも生きて戻ることができれば、一点の汚れもない身だと話した。お前の新星になれる。  あの子が戻ったら、兄と弟のように助け合って、新しい時代のための支度を始めろ。  新星。イェズラムが時々話したそのことを、ギリスは彼の最期の願いとして受け止めていた。  まだ帰らぬ新星のことを、時折思ってみることもあった。  頭がいかれるほどの恐怖がどういうものか考えてみても、ギリスには分からなかった。ささいな恐ろしさですら、自分には想像がつかない。  苦痛と恐怖に身悶える仲間たちを見ると、いつも羨ましかった。自分だけが、そこから切り離されている。  痛みを知りたければ、何かを愛することだとイェズラムは教えた。人でも、部族でも、何もなければ自分自身でもいい。何かを深く愛することができれば、怖れとは、痛みとは何かを学ぶことができる。たとえ肉体がそれを知らなくても、心が知ることになるだろう。  愛ってあれのこと? ダロワージで拾える。あれのどこが痛いんだ。  イェズラムが言うのが、広間から始まる一時の情事のことかと信じて、そんなふうに尋ねると、イェズラムは笑って首を横に振っていた。お前が言うのは恋のことだろうと、イェズラムは言った。呆れたという顔で。  イェズもダロワージで恋なんかするの。  興味本位で尋ねると、答えるイェズラムの視線は遠かった。  昔はしたさ、人並みに。だが今は、服を脱ぐのも面倒だ。  別にいいじゃん、着たままやれば。  ギリスがそう返事をすると、イェズラムは煙管を銜えたまま笑った。この上なく可笑しいというように。そして、お前は多淫だなと罵ったが、その声は優しかった。  ある日、イェズラムに連れられて刑場へ行った。刑吏たちが使う悪面(レベト)をかぶせて、イェズラムはギリスに、罪人たちの処刑を行うよう命じた。  それは常ならば、竜の涙たちが行うような仕事ではなかった。  死に行く者の最期のひと睨みには呪いがあると言い伝えられており、刑吏たちはそれを避けるために、磁器の仮面をつける。その面には、ひとつ目の怪物のような醜い顔が描かれてある。  悪面(レベト)をつけたイェズラムの姿は、ギリスの知らない男のようだった。  魔法を使って、心臓だけを狙えと教え、イェズラムはまず自分で手本を見せた。  イェズの魔法は戦場を照らす炎のはずだ。  しかしその時、炎は見えなかった。  それは人の心臓のごく細かな急所だけを焼く小さな火であり、目の前にいる死に装束を着た覆面の男を、ごく短く藻掻かせ、絶命させた。  同じことをやってみろと、イェズラムは促した。  命じられるまま、ギリスは試みた。一人、また一人と罪人は命を失っていったが、あるものは一瞬にして全身凍り付き、ある者は中途半端に凍って、中々上手くいかなかった。  罪人たちは、いくらでも運ばれてきた。  作業に没頭するうち、ギリスは悪面(レベト)の中で、滴るほどの汗をかいた。  氷結の魔法を使うというのに、魔力を振るうと、いつも身のうちが灼けるようだった。  では、火炎を使うイェズラムの魔法は、彼の体を冷やしているのだろうか。  自分が茹(う)だるのと逆に、彼はいつも凍えながら戦っているのだろうか。  そんなことを考えながら、試み続けるうち、やがて針のような薄氷が、罪人の心臓をとらえ、ギリスは成功した。  嬉しさのあまり、ギリスは悪面(レベト)を剥いで、隣に立つイェズラムに笑いかけた。養い親は、そんなギリスをひどく暗い目で見下ろしていた。  イェズラムはギリスの手から悪面(レベト)を取り上げ、それを刑場の床に叩きつけて割った。その音に、怒鳴りつけられたような衝撃を感じ、笑みを失ったギリスの頬を、イェズラムが平手で打った。  ギリスを殴る大人は、これまで一人もいなかった。殴っても痛みのない者を撲ったところで、なんの意味もないと皆思うようだった。 「この仕事に英雄譚(ダージ)はないぞ」  今も鮮明に耳に残る声で、イェズラムが語っていた。 「殺しをやるときは、泣きながらやれ。今すぐ聖堂へ行って、同族殺しの赦しを乞うがいい」  刑場の扉を指して、イェズラムはギリスを追い立てるように言った。  本物の悪党にはなるな、悪党(ヴァン)・ギリス。  いつも汚れない身でいろ。お前は新星のための英雄になるのだから。  そう言い終えて、イェズラムは自分が使った悪面(レベト)も床に落として粉々にした。それは仮面に押しつけた罪を祓うための習わしなのだ。ずっと後になってから、ギリスはそれを知った。知らずにいたあの瞬間には、イェズラムが怒っているのだと信じて、追われる犬のように刑場から逃げ出した。  聖堂で跪き、赦しを乞うた天使像の白い顔を、ありありと思い出せる。赦しを求めて、必死で祈った。あのとき自分が祈っていた相手が本当は誰だったか、今なら分かる。  なぜ死んだんだ、イェズラム。どうして帰ってこないんだ。  英雄譚(ダージ)がそんなにいいものか。  思い出に残るだけの顔に、ギリスは問いかけた。  族長は、詩人達の声が枯れ果てるまで、何度もイェズラムの最期の英雄譚(ダージ)を詠わせた。玉座の間(ダロワージ)に繰り返し流れるイェズラムの死の話を耳にしていると、ギリスは耐え難い怒りで頭が割れそうだった。  玉座から、イェズラムの英雄譚(ダージ)を聴き、英雄の死を骨まで貪ろうとする族長が憎く思えた。  名君だかなんだか知らないが、本物の名君だったイェズラムが死んだのに、その小綺麗な人形が、殉死もせずに生き続けているのは、おかしいと思えた。  王族なんて。  派手に着飾り、えらそうに命じることしか出来ないような連中だ。  本当に力を持っていたものが、族長冠をかぶるべきだった。  新星がどうのこうのと、イェズラムは馬鹿だ。さっさとあの玉座に、自分で座ってしまえば良かったのだ。  君臨するのに血筋などいらない。彼の操る炎に、いったい誰が不足を感じただろう。  そう思ってから、ギリスはふと、ほとんど吸いもせず持っていた長煙管が、すでに燃え尽きているのに気付いた。  無駄に燃やした麻薬(アスラ)は、ただ冷たい匂いを寝床に燻(くゆ)らせただけで、多くの追想をギリスに与えはしたが、わずかの酔いすらもたらさなかった。  煙管を握りしめたままの手で、ギリスは頭を抱えた。  思い出は一片の悲しみもなく、その日々を過ごした幸福感だけを連れてきていた。それと相反する、やり場のない怒りが、ギリスの頭の中で煮えたぎり、ひどく矛盾するふたつの力として鬩(せめ)ぎ合っている。  これが苦痛というものではないかと、ギリスは思った。石の痛みに悶える仲間の姿と、今の自分はよく似ている。無様で、哀れで、醜く、いっそ死んだほうがましだと心にもない弱音を吐いて、のたうち回る。本当はただ、幸せに生きていたいだけなのに。  助けてくれと、ギリスは祈りかけた。  その隣で、何の前触れもなく、眠っていたスィグルが藻掻くようにして、目を醒ました。  身を起こして、驚いた顔をしているスィグルの黄金の目と、ギリスもやはり、ひどく驚いて見交わした。  寝乱れた黒髪の間から、スィグルの蛇眼は、爛々と光って見えた。玉座に座っているあの男と、よく似た目だった。  寝ぼけ頭を振り払うように、スィグルは小さく頭を一振りした。そしてギリスがまだ寝床で頭を抱えているのを見下ろし、その手に握られている長煙管を、汚らわしいもののように睨み付けた。 「臭いと思った」  出会い頭に斬りつけてくるような口調で、スィグルは言った。 「僕の部屋で吸うのはやめてよ。臭いが残るんだよ。我慢ならないんだ。何度言えばわかるんだよ、この馬鹿め」  寝起きの不機嫌はいつものことだった。  それにしたって、よくもここまで人をなじれるもんだなと、ギリスは呆気にとられてスィグルを見上げた。 「ここは俺の部屋だよ」  ギリスが教えると、スィグルは二、三度、どうしても呑み込めないという風に瞬きをした。それから彼は、まだ汗じみたままの顔を擦った。 「そうだった。帰らなきゃ……」 「まだ昼間だけど」  驚いて、ギリスは言った。スィグルが寝ぼけて、もう夜だと勘違いしているのだと思った。 「まったく昼間っから何をやっているんだか」  枕を見つめて、スィグルは独り言のように呟いた。 「話があって来ただけなのに」 「話なんか何もしてもらってないけど」  寝ころんだまま、ギリスは尋ねた。 「そりゃそうだろう。話す前になんだか良く分からなくなったんだろう。お前ががっつくから、話してる暇もなかったんだよ」  こちらの枕を叩いて、スィグルは苛立ったように言った。なんでこいつはいつも苛々しているんだろう。どうもそれは王族の者たちの性質のようで、イェズラムのところに時折現れる族長も、たいてい苛立っているようだった。 「拒めばいいのに」  それが当たり前だと思って言うと、スィグルはさらに腹を立てたらしく、ほとんど殴るような強さで枕を叩いてきた。 「やめろって言ったよ」 「新手で誘ってんのかと思った」  答えないでいるスィグルの顔は渋面だった。ギリスは黙った。これ以上怒らせると、何をされるか分からなかった。 「僕はグラナダに行くから」  突きつけるように、スィグルはその話を切り出した。  確かそれは、タンジールより西にあるスィグルの領地の名前だった。なにかの褒美で、族長が彼に与えた、小さいが豊かな鉱山都市だと聞いている。 「行くって、いつから」 「十日後に出立する」  勝ち誇ったように言うスィグルの顔に、ギリスはまた唖然とした。 「もっと早く言えよ、そんなこと」 「生憎、お前と違って忙しくって、話す暇もなかった」  なんだか偉そうに言うスィグルの言葉は嘘ではなく、このところ中々捕まえる機会がなかったのだった。宮廷の博士たちと引きこもって、スィグルは毎日、訳の分からないことを、ぶつぶつ言っているらしかった。 「じじいと逢い引きするのが忙しくて、俺は放ったらかし。お前の趣味の幅広さにはびっくりする」 「そういう想像しかできないのか」  憤慨して、スィグルはまた寝床を叩いた。  それが面白くて、ギリスは笑った。 「僕は人質時代の遅れを取り戻さないといけないんだ。お前とふらふら遊んでばかりいるわけにはいかないんだ」  どことなくふて腐れた顔で、スィグルは言った。言い訳めいていて、おかしく、ギリスはまた笑った。  確かに一時、毎日ふらふら遊んでばかりだった。最近やっと我に返ったらしく、スィグルはずいぶん連れなくなった。毎日だったのが、三日と空けずになり、それが五日になり、しばらく晩餐のときにしか口をきかないこともあった。  そのことに文句を言った憶えはないのだが、なぜか後ろめたそうに言い訳される。 「寂しかったかギリス」  子供っぽい顔でスィグルが尋ねるので、ギリスはまた笑いそうになった。そうしていると可愛げのある弟(ジョット)だった。 「寂しかった」  相手の望むまま返事をすると、それは確かに本当のように思えた。  ギリスには寂しいという感情は、良く分からなかった。ひとりでいると退屈だった。ぼんやりと追想に耽るばかりで、何かをしようという気になれない。そういう時にスィグルの顔を見られれば幸せな気がした。そういう感情を、人は寂しいと呼ぶのだろうか。 「グラナダにはどれくらい行くんだ」  寂しいな、と内心に呟いてみながら、ギリスは尋ねた。  スィグルはじっとこちらの顔色をうかがっていた。 「一年か二年ぐらい」  けろっとして言うスィグルの言葉に、ギリスは殴られたような衝撃を受けた。開いた口がふさがらず、ギリスは返事をしかけたまま、呆然とした。 「お前、分かってて言ってんの。俺の一年が、お前の一年より、ずっと貴重なんだってことが」  想像もしていなかった出来事に、ギリスは動揺した。口に出してみると、自分の言葉の正しさに、さらに胸を打たれる。 「そろそろ僕も、統治することを憶えようと思って」  ずれた答えを返すスィグルは、悪びれもせず、じっとこちらの目を見つめてくる。 「季節の移りに合わせて起きる出来事を学ぶために、最低でも一年。できればもう一年は、領地に留まっていようと思う。それ以上タンジールを離れるのも難があるので、そのあとは戻るつもりだけど」 「継承争いはどうなったんだ」 「最下位の者がこれ以上、どう落ちるっていうんだい」  必死で尋ねたつもりだったが、スィグルはこれにもけろりと居直ったふうに答える。 「計画をまとめて願い出て、父上に許可をいただいた」 「弟はどうするんだ」 「あいつは大丈夫だよ。父上が面倒みるだろう。僕のことはまた忘れるだろうけど、そのときは、そのときさ。僕にも自分の一生がある」  そう答えるスィグルの捌けた口調は、どこか強がって自分に言い聞かせているようにも聞こえた。ギリスは顔をしかめた。  タンジールを出ていくなんて、そんなことが起こるはずない。王族は領地を持っていても、そこへ直接に出かけていくことはない。家臣に統治を委任して、王宮からそこを治めるものだ。 「僕が人質として滞在していたトルレッキオは、学院なんだけど、小さな宮廷としても機能していたんだ。子供ばかりだけど、その中に族長がいて、学院を統治していた。継承して本当に統治する前に、失敗しても取り返しのつく場所で、その訓練をするわけさ」  優れた仕組みだと思わないかと、スィグルは同意を求めてきた。  異民族を誉める話に、ギリスはすぐには付いていけなかった。王宮の感覚として、もっとも優れているのは黒髪に蛇眼を持った同胞たちで、それ以外のものたちは皆、どうしようもなく野蛮で愚かな異民族だった。学ぶべきものなど、領境の外には何一つありはしない。そう思っているのが黒エルフというものだ。 「僕も、玉座を目指すというなら、それに必要な資質が本当に自分の中にあるのか、試しておくべきだと思って」 「イェズはお前を新星だって言ってた。試す必要なんかないよ。イェズの目に狂いはないから」  諭しながら、スィグルは本気なのだと悟って、ギリスの心臓は早鐘を打ち始めた。  こいつはまた王都から出ていく気なんだ。やっと戻ってきたばかりなのに、また行ってしまうつもりなんだ。声も聞こえなきゃ、顔も見えないところへ。 「エル・イェズラムが僕の何を知っていたっていうのさ」  苦笑して、スィグルは少し照れたふうに、乱れた髪を耳になでつけた。 「グラナダでうまくいけば僕にも自信がつくよ」 「自信なんて……玉座に座ってからつければいいだろ」  言うだけ無駄だとギリスは思った。  死線に向かってタンジールを出ていくイェズラムを、止められる者が誰一人いなかったように。  早すぎる鼓動を打つ心臓が、頭にやたらと血を追い上げ、ギリスは自分がのぼせてきたのを感じていた。枕にくずおれて、ギリスはなんとか諦めようとした。  イェズラムと違って、スィグルは死にに行くわけではない。また戻ってくる。一年か、二年かしたら。ひょっとしたら領地が面白くなって、三年先かもしれないが。  待っていればいいではないか。以前そうだったように。  新星が戻ったら、兄と弟だ。そう思って待っていた頃には、退屈な以外、さほど困りもしなかったではないか。  苦しいなとギリスは思った。  これが苦しいという感覚ではないか。  誰もいないイェズラムの部屋を見るときの気分。いつ帰るかわからない弟(ジョット)を送り出す気分だ。  痛みについて学ぶことができる。なにかを愛すると。 「明日の朝儀で族長から宣下があるよ」 「王宮から自分を追い出すやつがあるかよ」  苦い味のする舌で、ギリスは悪態をついた。  継承争いは王宮で行われる。族長冠をめざす者たちにとっては、玉座の間(ダロワージ)がこの世界の全てだ。権謀術数と、派閥の争いが、族長の血を引いて生まれてきた者たちの生涯の全てだ。彼らは王宮から一歩も出ずに生きていく。そうしなければ出し抜かれるからだ。  それに与する竜の涙たちも、大差はなかった。戦場と王宮を往復するだけで、短い一生のほとんどの日々は、このタンジールの地下深くに収まってしまう。 「やる気あんのか、スィグル」 「なかったら、もう、兄(デン)でも弟(ジョット)でもないか?」  じっとこちらの顔を見て、スィグルは尋ねてきた。金色の眼が、灯火を絞った部屋の薄闇の中で、爛々と魔力を宿した星のように煌めいていた。  お前が俺の新星じゃなかったら、いったいどうしたらいいんだ。 「いっしょに来なよ、ギリス。タンジールが世界の全てじゃないよ」  首をかしげて、さも大したことではないというふうに、スィグルは言った。  タンジールは世界の全てだ。族長冠を継ぐつもりなら、そうであるべきだ。そう言いたかったが、息がつまって、ギリスはなにも言わずにいた。 「グラナダに僕らのための小さな玉座の間(ダロワージ)を作ろう。女官も詩人も楽師も連れて行くよ。そこでは僕は小さな族長さ」  おかしそうに言って、スィグルは笑った。 「僕の街では、畑に金の麦が揺れて、男も女も平和に歌を歌って暮らすんだよ。お前はそこで英雄の役をやったらどう」 「むちゃくちゃな話だ」 「僕は真剣に頼んでる。グラナダで君臨することを学ぶ。タンジールで兄弟げんかに明け暮れるより、ずっと将来の役に立つはずだ。お前が来ないというなら、タンジールに捨てていく」  誰にも知られずに相手の息の根を止める魔法を、こいつも知っているのではないかと、ギリスは思った。悪面(レベト)もかぶらず、花が咲いたような顔で、人を処刑する。  こいつもあの族長の子なんだ。ギリスは初めて、それを感じ取った。  絵の中から出てきたみたいな顔で、平然と命じる。戦って死ねと。その声に誰もが狂喜して従う。そういう風な悪魔の血が、この白い体に流れている。 「僕のためなら何でもできるんじゃなかったの」  とどめを刺すような甘い声で、スィグルが誘っていた。 「それはタンジールで玉座を争うとしての話だよ。継承争いに敗れたら死ぬんだぞ」 「これが僕の争いかただよ、ギリス。信じてついてくればいいんだ。僕の都には、天使だって祝福しにやってくる」  悪戯っぽく笑うスィグルの、企みを持った悪童の目に、ギリスは逆らえなかった。  なんなんだこいつは。寂しがって彷徨っていたひ弱な餓鬼だったくせに。それが今では、俺にひれ伏せと言っている。 「無理ならいいよ。お前はエル・イェズラムに命じられて来たんだろ。今から他のやつに乗り換えても、僕は気にしないよ。長老会と相談しておいで。稀代の英雄にだって、見込み違いはあるさ」  寝床から出ていこうとするスィグルの腕を、ギリスはとっさに掴んだ。今この手を離したら、かすかな糸で繋がれていた絆は切れる。  そんなもので彗星を引き留めておけると信じていたほうが、頭がどうかしているのだ。 「どうしたのさギリス」 「イェズラムは見込み違いなんかしない。お前が、俺の新星なんだと思う。でも、思ってたような星と違う。俺がお前の役にたつかどうか、分からなくなってきた」  彗星レイラスは、悪面(レベト)の男を必要とするような星ではないのではないか。もしもそうだったら、何の用もなさない者として、どうやって一緒に歩んでいけるというのか。 「さあ……お前にだって使い道はあるよ」  考え込むように指を顎にやって、スィグルはギリスの顔を見た。 「いつもみたいに笑って、僕を励まして。腹が立ったら八つ当たりさせて。一緒に食べて、一緒に寝て、一緒に戦ってくれれば、それでいいよ」 「八つ当たりはやめてほしい」 「それじゃ交渉決裂だな」  楽しげに、スィグルは声をあげて笑った。なぜ彼が笑うのか、ギリスには分からなかった。たぶん、冗談を言っているのだろう。ギリスはつられて苦笑した。  イェズラムはなぜ自分で玉座に座らなかったのかな。  それはたぶん、同じ闇夜を行くのなら、星を見ながら歩くほうが、楽しいからだ。 「わかった。八つ当たりしてもいい。俺も連れて行って」  答えると、スィグルは微笑んで、腕をつかんでいたギリスの手を外させ、その手と握手をした。いつもは手を引くために握っていた手だった。それが今は、この手が自分を引き立てていこうとしている。  新しい広間(ダロワージ)へ。  そこで助け合い、そこで争い、そのために命を捧げられると思えるようなものか。イェズラムが、タンジールの玉座の間を、命をかけて愛したように。  そうだといい。もしそうなら、無痛のギリスの生涯も、甘い痛みとともに過ぎてゆくことができる。  ギリスはスィグルの手を引き寄せて、まだ腕の中におさまる体を抱きしめた。いずれ跪いて叩頭するしかなくなる時まで、あと何時間残されているだろう。  それでも今はまだ、微笑む新星の顔は、口付けを拒みはしなかった。時をかけて、ギリスは触れるだけの接吻を降らせた。針のような切ない痛みが、甘く心臓を襲った。しかしそこに苦痛はなかった。ただ底知れない幸福感があるだけで。  振り返って見ると、夕景に佇むタンジールの尖塔(ミナレット)が、最後の日を浴びて、まばゆく輝いていた。  夜の砂漠を行く隊列は、すでに出立の準備を整えている。  永遠に去るわけではない故郷が、ギリスにはひどく遠くに感じられた。  次に戻るときには、おそらくタンジールは戦場で、新星は戦いの狼煙を上げるつもりでいる。言葉にして確かめたわけではないが、その予感に間違いがないことを、ギリスは感じていた。  一生のうちに残された、最後の静寂のときが、これから始まろうとしているのだ。  旅装で砂牛の鞍に乗っているスィグルを横に見て、ギリスはその取り澄まして気位の高そうな横顔を眺めた。  進み始める隊列が、別れを告げる声で、麗しの(フラ)・タンジールと叫んだ。  楽園が遠ざかる。  新星に付き従う者たちは、宮廷と呼ぶには、あまりに少なかった。  しかしスィグルはそんなことは気にならないという顔で、誇り高く胸を張っていた。その光輝を振り仰ぎ、ギリスは旅立ちの手綱をとった。  いつか英雄譚(ダージ)が語るかもしれない。今この時の無痛のエル・ギリスの姿を。  もしも自分が英雄らしく死んで、それを詩人たちが詠うときが来たら、目の前にいるこの新星が、彼のための玉座に座り、詠う声の枯れ果てるまで、繰り返しそれを聴いてくれればいいと、ギリスは願った。  詩人たちは記録するだろう。イェズラムがそうだったように。  自分がこれから捧げる命のことを。愛のことを。甘い痛みとともに生きた、幸福な一生のことを。 「グラナダに着いたら、まず何をするんだ」  ギリスは鞍の上のスィグルに話しかけた。  そうだなあ、と、新星はのんびり答えた。 「お前と歌でも歌って、それから昼寝でもしようか」  なにも考えていない。これから決めると笑っている顔が、ギリスには何より愛しかった。  詩人たちは讃えるだろう。  自分が新星のための英雄であったことを。  そうであればいいと、ギリスは願った。  《完》 ※これ以降のBL修行作品は乙女堂( http://otomedo.com/ )にあります。 _______________________________________________________ Copyright (c) 1998-2010 TEAR DROP. 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